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「覇権国」スペイン、オランダの脆弱性
はじめに
時に、スペイン、オランダ、イギリス、アメリカが、16世紀以降現在まで世界の覇権を握ったとされる。ただし、ウォーラーステインは、「17世紀頃のオランダ」、「19世紀末から第一次世界大戦勃発頃までのイギリス」、「第二次世界大戦後1970年あたりまでのアメリカ合衆国」と、「世界史上、三つのヘゲモニー国家(工業、商業、金融業の三部門で他を圧倒するような経済力をもつ国家)が出現」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』講談社、2009年、9頁)したとして、スペインは含めていない。
しかし、16世紀スペインもまた、「「世界的な規模を持つ帝国」(J.H.エリオット、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡』岩波書店、2009年199頁)であった。「ヨーロッパの拡張とその世界支配」という「近代史」の中で、スペインは「最初の覇権国家とな」ったのである(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』NHK出版、1992年、85−6頁)。だが、1560−1660年、スペイン優位は「ヨーロッパの政治状況の中で最も顕著な事実」ではあったが、「つづく数十年のその崩壊もそれに劣らず顕著」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』35頁)でもあった。スペインは脆弱な覇権国だったのであり、またオランダも別の意味で脆弱な覇権国であった。スペイン、オランダは、間隙を突いて浮上した「小国の脆弱覇権」であり、故に、文字通りの覇権国家の登場はイギリスが最初であったが、ここでは触れないがイギリスもまた脆弱性をもっていた。
以下、ここでは、スペイン、オランダの覇権の脆弱性を考察して、この限りでイギリスの覇権性について見通しておきたい。
一 「覇権国」スペインの脆弱性
まず、スペイン帝国の覇権の脆弱性からみてみよう。
1 レコンキスタと国内諸王国
レコンキスタ 711年イベリア半島は「イスラム教徒の侵入を受け」、「20年余りの間に北部のアストゥーリアス地方を除いた全半島を征服」し、以後、キリスト教徒は国土再征服運動(レコンキスタ)を開始し、11世紀には「半島の北半分以上がキリスト教徒の支配下に再び置かれ」、その間に「アストゥーリアス、レオン、カスティーリャ、ナバーラ、アラゴン、カタルーニャ、ポルトガルといったキリスト教の国々が誕生」し、13世紀末にキリスト教王国は「ポルトガル、カスティーリャ、アラゴンの三国に統合」された(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』NHK出版、1992年、9頁)。
カトリック諸王国 アラゴンは、「イスラム追放後、その力をいち早く地中海に向け、13世紀から15世紀にかけてバレアレス諸島をはじめとして、シチリアとサルデーニャの両島を次々に征服して、さらにイタリア半島のナポリ王国までその版図に入れ」、「地中海におけるこの国の海運貿易活動はまことにめざましいものがあった」(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』9頁)。
ポルトガルは、後述のように、14世紀後半からアフリカ西海岸に進出する。一方、15世紀半ばに至って、カスティーリャでは、「南部、アンダルシーア地方のコルドバ、セビーリャといった町々が、キリスト教徒に再征服される」のである。さらに、カナリア諸島に進出すると、「ポルトガルと利害が衝突」したので、1479年「アルカソーヴァス条約」(カナリア諸島はスペイン領で、それより南の海域とアゾレス諸島・ヴェルデ諸島を含む東の海域はポルトガル領とする)で相互の勢力範囲を定めた(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』10−1頁)。既に、1469年、カスティーリャ王女イサベルとアラゴン王子フェルナンドが結婚し、その後にそれぞれ即位する。
1492年、カスティーリャ王国は「最後のイスラムの拠点グラナーダ」を陥落させ、レコンキスタを完了した(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』NHK出版、1992年、11頁)。このグラナダ併合により、「カスティーリャ王国はイベリア半島全域の約三分の二を占めることにな」り、16世紀末人口はカスティーリャ500−600万人、ポルトガル、アラゴンは各100万人であった(J.H.エリオット、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡』岩波書店、2009年、16頁)。15世紀末の「スペインの諸王国」は、「社会、文化、宗教の基本的諸要素」は残ったまま、18世紀初めには「スペイン」王権が残った(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』7頁)。
複合王政 1492年1月6日に、「フェルナンドとイサベルはグラナダの町(南部に残っていたイスラム国家)に勝利の入城を果たし、この町をモーロ人(北西アフリカのイスラム教教徒)のほぼ8世紀にわたる支配から奪回した」(J.H.エリオット、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡』岩波書店、2009年、39頁)。約800年にわたったレコンキスタを完成させる。
「近世スペインと結びつく数々の王国」は、ネーデルラント、ナポリ、シチリアなどには「独自の議会」があったように、「政治、法律、貨幣、武力の点で完全な独立性を保持しており」、故に「共通の主君への服従という点でだけ一致」した、「複合王政」、「17の王権の王朝大同盟」(フランス歴史家ピエール・ショーニュ)という見解もある。こうした複合王政は、「ヨーロッパの他の地域、例えばイギリス諸島などにもあった」が、スペイン王国のどこでも、「伝統的諸制度は王の要求を制限」した(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』13頁)。
2 大陸の侵略
@ 大陸侵略
@ ポルトガル、スペインの航海経験・海事知識
ギリシャ地球観 地球球体説は、「既にギリシア時代のピタゴラスやアリストテレス」や「紀元二世紀のアレキサンドリアのプトレマイオス」らによって提唱されていたが、以後、「世界をエルサレムを中心とした平面」とみるキリスト教地理観が普及していった(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』NHK出版、1992年、11−2頁)。
だが、後述の通り、コロンブスはこの地球球体説に準拠して、インド発見の航海に出ることになる。
海事知識の欠如 1291年ジェノヴァのヴィヴァルディ兄弟は「インドを目指し」、1346年マヨルカ島のフェレールは、「金の川」をめざし、いずれも「ジブラルタルを越えてアフリカ西岸を南下」しようとしたが、まだ「大西洋の海洋地理が理解されていなかった」こともあって、「帰航する場合、強い北東貿易風およびカナリア海流とまともにぶつか」って、「おそらくナン岬ないしボジャドール岬(西アフリカ)の回航で頓挫」した(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』昭和堂、2013年、264頁])。
海事知識・技術 「スペインとポルトガルに『大航海時代』の立役者を演じさせた要因」としては「サラセン文化の影響」がある(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』早稲田大学出版部、1998年、12頁)。特に、ポルトガルは、「13世紀の半ばに再征服運動を終え、14世紀後半アヴィス王朝が成立すると、アフリカの大西洋沿岸や近海に発展し始め」、とくに「ジョアン1世の第三王子のエンリケ」は、航海王子と言われる程に「航海に熱心で、自ら軍を率い、北アフリカのセウタを攻略して1415年にはこれを自領」とし、1418年以降「積極的に大西洋を南下し、マデイラ諸島や、ヴェルデ岬諸島を占領し」、さらに「アフリカの西海岸に到達し」(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』9−10頁)た。
コロンブス(ジェノヴァ人)、ガマ(ポルトガル)、マゼラン(ポルトガル)の共通点は、「それに先立つ約100年間における海事上の知識と技術の発展」を利用して、「それまでのヨーロッパ人が経験したことのない規模の外洋航海を行なったこと」(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』262−3頁])である。
天文航法 15世紀半ばまで、陸標に頼らず、天文航法の発展を促しつつ、「間切り(海事用語で「風上に向けてジグザグに航行する」事)能力の高いポルトガルのカラベラ船は沿岸を離れ右舷に風を受けながら大きく弧を描いて北上し、アソーレス諸島付近に達すると、そこから偏西風に乗って帰還」できるようになり、この航路は「帰航アーチ」と呼ばれた。1462年、ポルトガル人ディオゴ・ゴメスは「ヴェルディ岬(西アフリカ)諸島の調査時、四分儀に北極星の高度を記入し、帰路アソーレス諸島を経由した」。さらに、ポルトガル人は、1470年に「赤道に達していたため」、1480年代には「北極星にかえて太陽の南中高度による天文航法」が開発された(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』264頁])。
1470−80年代初め、コロンブスは、「リスボンやマデイラを拠点に交易」に従事し、「ギネー航海の経験」も重ね、この間に「アジアへの西回り航海案を構想」し、1483年頃にポルトガル国王ジョアンにこの構想を提案したが、拒絶された。そこで、フランス、イギリスとも交渉した末に、1492年スペインのカトリック両王とサンタ・フェ協約を結び、計画を実行した。「北大西洋の横断だけであれば」、「太陽の南中高度による天文航法」の理解は不要であり、故にコロンブスは天文航法を知らなかった(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』264−5頁])。
しかし、ガマは、「航海用アストロラーべ(天測儀)と天文表」を携帯し、「往復路で南北大西洋の8の字を描いて縦断する大胆な航跡を描」き、これが「以後数世紀にわたって標準」となる。ただし、インド洋では、「現地航海士らの水先案内」を使っていた(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』265頁])。
A ポルトガル
経済的関心 ポルトガルは、カスティーリャのキリスト教化ではなく、経済的関心からアジアに進出しようとする。
ポルトガルの目的は、ヨーロッパで関心が抱かれ始めたアジア香辛料を直接求める事であり、同国はインドへの道を模索し始めた(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』9−10頁)。1400年初め頃、ポルトガルは、「モロッコへの戦略的進出とアフリカ西岸・大西洋諸島(カナリア諸島、マデイラ諸島、アソーレス諸島、ヴェルデ岬諸島)における商業的進出が眼目であ」り、第一歩として1415年「ジブラルタルの対岸に位置する交易拠点セウタの攻略に着手したが、その攻略は容易ではなく、「アヴィス朝ポルトガルの国力を著しく削ぐ」(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』
260頁])ことになった。1418年以降、マデイラ諸島、アソーレス諸島、ヴェルデ岬諸島の「順」で植民が開始された。
他方、1434年の「アフリカ西岸の 南下踏査は難所とされたボジャドール岬の通過」が「画期」となり、1441年はじめて「金の川」で奴隷狩が行なわれ、アフリカ西岸ギネーに次々と交易拠点がつくられ」た(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』261頁])。
ローマ教皇の正当化 ポルトガル国王は、ローマ教皇から征服地を正当化してもらうために、キリスト教との連関を企図した。
1454年1月教皇ニコラウス勅書で、「ボジャンドール岬・ナン岬から先のギネー全域及びそこを越えて南端に至るまでの陸地の征服と通商・航海・漁業の権利」は、ポルトガル国王アフォンソ5世とその後継者およびエンリケ親王に帰属すると宣言した。1456年教皇カリストゥス3世勅書で、「ギネーから『インドに至るまでの』すべての土地の精神的統治権と聖職叙任権をエンリケ親王のキリスト教騎士団に与え」た(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』9−10頁)。
そして、こうした15世紀半ばの教皇勅書では、「教皇の贈与は布教活動の義務・権利、すなわち布教保護権と表裏一体」だとされた。フレイタスは、「布教は必然的に貿易と征服を伴うのであるから、ポルトガルとカスティーリャの諸王は教皇勅書に示された範囲内で排除の権利を行使できる」とした。これに対して、スペイン・サラマンカ学派は、「教皇贈与はアメリカ征服の正当性を与えるもにではない」とし、スペイン法学者ファン・デ・ソロルサノ・イ・ペレイラは「教皇贈与を強く擁護した」。この論拠では、大陸侵略面でのスペインの「対オランダ・イギリスの論拠としては脆弱」であった(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』274頁])。
1480年頃、「ポルトガルは海外進出の目標を明確にインドに定めた」(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史261頁])。1488年にはバルトロメオ・ディアスの率いる船が喜望峰に到達して、ついにアフリカの南端を極めるに至った」(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』9−10頁)。
B スペイン
スペインとカナリア諸島 1402−5年、「カスティーリャ国王エンリケ3世の支援を得たノルマンディのべタンクールが・・カナリヤ七島のうち三島を征服する」と、ポルトガルとの間で「カナリヤ諸島をめぐる係争が生じ」、1470年代後半に「カスティーリャ王位継承と絡んで軋轢は深刻化した」。1479年アルカソヴァス条約でこの係争は収束し、「カスティーリャはカナリヤ諸島を確保」し、ポルトガルは「他の大西洋諸島とカナリヤ諸島以南の土地と島嶼」を確保した。1481年、ポルトガルは、このカスティーリャとの条約を教皇シクストゥス4世勅書で容認させた。
ポルトガル王ジョアン2世は「地中海経由で間諜を送りインドやエチオピアの状況を探らせ」つつ、さらに「アフリカ西岸の踏査を加速させ」、1487−8年にバルトロメウ・ディアスは「喜望峰を回航してついにインド洋に乗り入れた」(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』262頁])。
コロンブス 1460年ー16世紀初頭、ヨーロッパ・アメリカ間に二つの周回航路、つまり@「北海からアイスランドとグリーランドを経由し、西に向かうアーミンガー海流などに乗ってラブラドルやニューファンドランドに達する」「反時計回りの『ヴァイキングの路』」、A「イベリア半島南西部の諸港からカナリア諸島を経由してまず南西方向へ、次いで西へ向かい、フロリダ半島沖を北東へ、次いで東へ向かいアソーレス諸島を経由してリスボンないしカディスへ至る」「時計回りの『コロンブス航路』」という二航路が成立した(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』昭和堂、2013年、263−4頁])。
しかし、イタリア・ジェノヴァ出身のコロンブスは、上述のように航海技術を身につけ、フィレンツェの天文学者トスカネリの地球球体説(古代のプトレマイオスの地球球体説の影響を受ける)にもとづいて、大西洋のかなたにはインドがあるだろうと見ていた。1486年5月、コロンブスは、「グラナーダ攻略に向け陣頭指揮に立っていたイサベル女王とフェルナンド王」に面会して、「西へ向って航海するための援助を求め」、イサベルは関心を示したが、諮問した委員会は消極的であり、「侵略」的要求(@「発見する地域」の終身・世襲提督にする事、A「発見する土地の副王兼総督」にすること、B「その領土で発見・売買等によって入手されるものの10分の1を自分の取り分とすること」)も問題となった(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』16頁)。
だが、レコンキスタ完了3カ月後の1492年4月17日には、「グラナダから6マイル離れたサンタ・フェにあるキリスト教軍の幕舎で、ジェノヴァ人クリストーバル・コロン(コロンブス)が計画した探検航海の諸条件についての提案が成立した」(J.H.エリオット、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡』339頁)。8月、彼は3隻の船がジパングなどを目指してパロス港を出発した(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』16−7頁)。こうして、「フェルナンドとイサベルの治世中(1474−1516年のカトリック両王の時代)に、カスティーリャ王国は最終的に内戦の惨禍から解放され、スペイン国内と海外の両方で、征服の事業に乗り出すことになった」(J.H.エリオット、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡』16頁)。つまり、スペインは、国内的には経済的後進性の故にヨーロッパ最強最大の覇権国になりえず、権力の空白状況をついて、国内小王国を従属させるにとどまっていたが、レコンキスタ完了余
勢で世界侵略に着手したのである。
C ポルトガルとの調整
教皇アレクサンドル6世勅書 1493年3月にコロンブスは新大陸を発見すると、ポルトガル王ジョアン二世がコロンブスにアルカソーヴァス条約を根拠にポルトガル領と主張したことから、同年5月にカスティーリャ王イサベルはローマ教皇アレクサンドル6世(アラゴン出身のスペイン人)に、「ヴェルデ岬諸島の西方100レグア(約550キロ)を境に、西側をスペイン領に認定してほしいと請願」した。1493年5月4日、ローマ教皇アレクサンドル6世はスペインに「贈与(インテル・ケテラ)大勅書」を発布し、「キリスト教の布教と引き換えに、スペインが発見した陸地と島々をスペインに永久に贈与し、譲渡する」とし、アゾレス諸島とベルデ岬諸島西方100レグアの子午線をスペインとの境界線と定めた。「グラナダの征服とアメリカの発見は、同時に事の終わりと始まりを意味し」、「グラナダの陥落によってスペイン本土のレコンキスタは終了した」が、これはまた「モーロ人(イスラム教徒)に対するカスティーリャの長期にわたる聖戦に新しい局面を開くことになった」(J.H.エリオット、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡』39頁、合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』266頁])。
コロンブスのアメリカ到達(10月12日)を受けて、今度は新大陸へのキリスト教布教のためのコンキスタ(征服)が開始されたのである。
トルデシーリャス条約 ポルトガルはこれに反対し、1494年6月にカスティーリャのトルデシーリャスで、両国は、ヴェルデ岬諸島(西アフリカ沖)の西370レグア(2000キロ、西経46度)とする事で合意した(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』19頁、合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』266頁])。これで南米のブラジル大西洋岸がポルトガル領となるのである。
この効果は程なく現われた。1500年カブラル(キリスト騎士団の一員でポルトガル王マヌエル1世の顧問官)が「第二回インド航海の途中ブラジルを発見」し、「トルデシリャス条約によってポルトガル領」としたからである(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』266頁])。しかし、発見対象は「豊かなアジアではなく、貧しい新世界」であることが判明すると、やがて「分界の議論の対象」は「大西洋からアジアに移った」。
これに先立って、既にカスティーリャ王国はコロンブスに、「発見した島々の開発を命じて、17隻、1500人の大部隊を派遣」させていた。これに刺激され、ポルトガルは、「1488年の喜望峰到着から一時頓挫していた大航海を再開し、1497年にヴァスコ・ダ・ガマに指揮させた四隻の船をインドへ送り、初めてカリカット(現コジコーデ)に到達」していた。以後、ポルトガルはアジアに関心を強めてゆく。
香辛料交易圏 1502年には、ポルトガルは「ガマの指揮下に第三回インド遠征隊を発し、胡椒の主産地マラバル海岸などに初めて艦隊を常駐させた」。「インド洋で展開するポルトガル船」は、1512年50隻、60年代末100隻となり、「封鎖・巡視・砲撃をちらつかせる武威による交易を推進し、カリカットのように反発するものもいたが、コチンのように協力するものもあった(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』昭和堂、2013年、269頁])。
1509年、「ポルトガル領インドの総督アルメイダの艦隊はインド北西部のグジャラート・マルムーク朝の連合艦隊を大破」した。次の総督アルプケルケは、「小型錬鉄砲を搭載したナウ型武装商船隊を駆使して、交易上・戦略上の要所(ゴア、マラッカ、ホルムズ、モルッカなど)に次々に要塞を設営し、点と点を線でつなぐ交易拠点帝国を形成し」、「胡椒や高価な香料(クローブ、ナツメグ、メース、シナモン)の生産と流通を掌握した上で、紅梅やペルシア湾からエジプト・シリアを経てヴェネツィアにつながる旧ルートを遮断し、香料類を喜望峰ルートでヨーロッパに独占的に供給」しようとした(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』269頁])。そして、マカオを「東洋におけるポルトガルの最大拠点」とした(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』19−20頁)
なお、この喜望峰経由は「難破による損失」の大きな航路であり、特に16世紀末が「船舶の損失率」は40%と「最も高かった」(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』270頁])。
対蹠分界線 16世紀初頭、スペインは「香料諸島へのポルトガルの進出を食い止めたい」として、「対蹠分界」論(「分界線は地球の反対側に及ぶのだから、非キリスト教世界は輪切りに等分割されていたという解釈)を提起し、ポルトガルはこれを受容した(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』266−7頁])。東経134度以東(日本については近畿・関東、世界で言えばアメリカ大陸からフィリピンまではスペイン領地)、以西(日本については中国・四国、世界で言えばインド大陸など)はポルトガル領地となる。しかし、実際には、「地球の裏側の境界線」を決めていなかったので、1524年に両国はサラゴーサ条約を結び、「モルッカから東17度の線(東経144度30分)を分界線と決め」て、144度以東はスペイン、以西はポルトガルとしたが、ポルトガルはスペイン領とも重なるモルッカ諸島(香料諸島)を「スペインに35万ドゥカードを支払って」維持した(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』21−2頁)。
なお、1754年ファン・ロペス・デ・ベラスコ『インディアス地誌総覧』では、対蹠分界線は「マレー半島を通っており、『北インディアス』(北米)及び『南インディアス』(南米)と『西インディオス』(対蹠分界線以東のアジア)に挟まれた太平洋の横幅は110度(実値は164度)」である(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』268−9頁])。
スペインの太平洋進出 スペインは、1513年バルボアが「パナマ地峡を越えて太平洋を見出」し、ここにスペインの「太平洋の支配者」の主張がもたらされる。その太平洋の横幅は、マゼラン隊の情報で拡大したが(1507年ヴァルトゼーミュラー図は80度だったが、1529年ディオゴ・リベイロ図では134度となった)、太平洋航路の成立後、「航路の両端を分界内に収める必要」から「スペインの湖」は縮小した(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』268頁])。
1519−21年コルテスが「メキシコのアステカ王国を征服」し、マゼランがスペイン国王カルロス1世の援助で世界一周航海にでて、1521年フィリピンのセブ島に達した。セブ島は、サラゴーサ条約ではポルトガル領になるのだが、香料を産しないので、スペインはポルトガルの抗議は出ないと判断したのである。「ポルトガル人マゼランが率いるスペイン艦隊」は、日々緯度を計測し、要所で経度も測定して、マゼラン海峡を越え、1521年太平洋を横断して、フィリピンを支配し、「コロンブスが果たせなかったアジアへの西回り航路」を開拓した(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』265頁])。
スペインは、「メキシコとフィリピンを結ぶ太平洋航路をもって西回り航路に代え」、1527年に「メキシコからの往路」はサアベドラ隊によって簡単に開かれたが、1565年セブ島から110日間でカリフォルニアに着く復路を開いた。1571年、スペインが「フィリピン支配の拠点をマニラに定める」と、「マニラとアカプルコを結ぶガレオン航路が成立」した。スペイン領メキシコ・ペルーの銀は、「すでにヨーロッパ経由でアジアに流れていた」が、この航路開拓で、「マニラ経由で中国へ運ばれ、代わりに中国の絹などアジアの工業製品がメキシコへもたらされた」(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』265頁])。
こうして、太平洋航路は、「アメリカとアジアをつな」いだのであった。「ヨーロッパとアジアを直接つなぐマゼラン海峡経由の航路は多大の困難と長大な航海を要し」たので、「フランス、イギリス、オランダは新大陸をすり抜ける別の航路を求め」、「北米の北側を回る北西航路及びユーラシアの北側を行く北東航路」を発見した(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』昭和堂、2013年、265−6頁])。
D イギリス・フランスなどの反撃
こうしたスペイン、ポルトガルのローマ教皇「公認」のアジア、アメリカ植民地化に対しては、イギリス、フランスはこれに反対する行動に出た。
イギリスの反撃 1496年3月、イギリス国王ヘンリー7世はヴェネツィア人ジョン・カボットに、「北・東・西のいずれの方向であれ、『キリスト教徒にとって未知』の土地を目指す航海の特許状」を与えた。1497年、「カボットは帰国し、ロンドンに熱気をもたらした」が、スペイン大使アヤラはヘンリー7世に、「カボットによる踏査地は教皇勅書及びトルデシリャス条約によってスペインに留保された圏内にある」と抗議したが、「無駄」であった。しかし、「第二回航海の失敗でアジアへの北西航路探索の熱はさめ」、以後「1560年代までイギリスは分界に挑戦」しようとしなかった。1505年以降は、「事実上イギリス人がスペインの西インド貿易に参入を許されて」いて、これがイギリス不満の「一種のガス抜き効果」をもたらしていた(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』271頁])。
イギリスは、1550年代には「西アフリカでの密輸に手を染め」、60年代には「カリブ海域に私掠船を送り込」み、1568年には「ネーデルランドのアルバ軍にアメリカ銀を供給するスペイン艦隊」を襲撃し、対スペイン関係が悪化した(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』272頁])。
イギリス女王エリザベスは、「ドレイク(フランシス・ドレーク)に25隻の艦隊を授けて、スペインの財源である西インドを攻撃させ」、この結果、「スペインへの銀と財貨の転送は途絶し、スペイン銀行は破産」した。スペインは、この報復として、「ローマ法王の強力な支持の下に本格的な英国征服の準備を始めた」。1587年、ドレイクは「30隻を率いてスペイン艦隊の集結基地であるカディス港(スペイン南西部の港湾都市)を急襲し、エリザベスの期待に背かず、何千トンもの船と補給物資を破壊した」が、1588年にスペインは英国征服のために「再建された無敵艦隊(130隻、5万9千トン、兵員2万人、水夫8千名、奴隷2千人)」を英仏海峡に派遣し、カレー港(フランスのドーバー海峡港湾)でパルマ軍4、5万人から選抜した6千人と落ち合う計画であった。しかし、パルマ軍は到着せず、船は「燃料と火薬を満載」していたので、8月7日から「オランダ海軍の働き」もあって、翌日の英国艦隊の攻撃で巨船16隻が沈没し、将兵4、5千人が戦死し、残りの艦船もほとんど「損害を受け」た(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』120−5頁)。
フランスの反撃 16世紀前半、スペイン、ポルトガルが「分界を脅かす恐れのある第三国」として「もっとも警戒すべき」国はフランスであった(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』271頁])。
1497年、コロンブスの第三回航海で「フランスの海賊船に遭遇」した。1521年フランス船隊は「サン・ヴィセンテ岬沖でセビーリャへ向かうカラベラ船3隻(スペイン)を拿捕し」、1522年フランス船隊は「ヘラクルスから発したナビオ船3隻(スペイン)」をアソーレス諸島沖で襲撃した。1524年以降、スペインは「西インド航路の商船隊を4隻の軍船で護送させる」方針を打ち出し、1543年以降「護送が全航程に及」び、スペイン船の損失は25%減少した(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』271頁])。
フランスはスペインの反撃に直面して、私掠対象を「ポルトガル船へ転換」した。この結果、「フランス私掠によって略奪されたポルトガル船」は、1501−19年の年平均5隻が1520−30年の年平均19隻に著増し、1500−34年「捕獲ないし略奪された船舶は350隻に及んだ」(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』271頁])。
ポルトガルの対応 これに対して、ポルトガルは「防衛体制の構築をはか」り、1526年までに5小艦隊が編成され、「ジブラルタル海峡、ポルトガル沿岸、大西洋諸島、ギネー湾、ブラジル沿岸の哨戒」に当たった(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』271頁])。1532年、ポルトガルはフランスと、「すべての拿捕認可状を破棄し、いかなる報復も行なわないことで合意を交わし」、30年代後半一時「フランス私掠は沈静化」した(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』272頁])。
しかし、ポルトガルにとって、私掠船の被害は大きかった。1520−50年平均で、ポルトガルの「海賊による船・積荷の損失額、防衛艦隊経費、外交・買収などの経費」は「ポルトガルの国家収入の20%」に相当した。拿捕されたポルトガル船の「大半」は「マデイラ諸島やサン・トメ島産の砂糖やワイン、ブラジル木などを積んだ小型のナビオ船」であり、「インドの香料を積んだナウ船やミナの金を積載したカラベラ船」の被害は小さかった(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』272頁])。
イギリス、フランスの植民地化着手 イギリスは、1494年トルデシリャス条約に対抗して、イギリスは「北米大陸の北側を通過する『北西航路』、あるいはユーラシア大陸の北側を経由する『北東航路』を発見し、それらの海路から東アジアへ迫ることを模索しよう」とした(金沢周作編『海のイギリス史』29頁)。
1551年、リチャード・キャンセラー(Richard Chancellor)、シーボーン・ガボット、ヒュー・ウィロウビー卿(Sir
Hugh Willoughby)などの240人の冒険家が25ポンドで株式を購入し、「新天地への商人冒険会社(Company
of Merchant Adventures to New Lands)」を設立した(金沢周作編『海のイギリス史』29頁)。以後、各植民地会社が設立されてゆくのである。
一方、フランスの動きを見ると、16世紀半ば、カリブ海東部で「フランス私掠(及び密貿易)が本格化」した。1548−50年には、フランス人は「ブラジルへの入植や西アフリカ貿易への参入を目指し」た(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』272頁])。
1560年代、「フランスのユグノーによるフロリダ入植」が開始され、1565年、スペイン軍は、「フロリダは西インド航路で帰航中のスペイン船をねらう私掠船にとって格好の基地となりえ」るとして、この排除を実行した。スペインは、1564年法令でスペイン護送船団方式を確立し、「少なくとも2隻の武装した大型商船によって護送される」システムが17世紀半ばまで機能した。1567−8年、「カスティーリャ王室によってオール付きの小型ガレオン船が12隻建造され、10年間西インド船隊の護送と巡回で活躍」し、1583−4年に大型ガレオン船隊が編成され、「スペイン初の王室常備艦隊」となる(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』272−3頁])。
征服の性格 スペインのアメリカ大陸侵略は政府の「公的」征服ではないとする意見もある。「スペイン帝国は、領土拡大に基づくものではなく、さらなる拡大を求めもしなかった」のであり、「北アフリカ沿岸に三つないし四つの要塞を擁し・・ジェノヴァ近くの地中海沿岸にあるフィナーレ港を占拠(1570年)」したのは「安全上の理由」からでありる。そして、新世界の征服は「公的軍事行動というよりは、征服者や冒険家のグループによって行なわれた個々の努力の成果」であり「18世紀まで新世界には政府の力は及んでいなかった」し、「わずかな人口と弱い経済は帝国建設という目的には不十分」で「カスティーリャは、強大な地位を築き上げ維持するに十分な人も資産ももっていなかった」(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』岩波書店、2009年、41頁)とするのである。
確かに、新大陸の発見は、「ペルシャやインド地方のいわゆる東邦物産と、マルコ・ポーロの旅行記で紹介された未知の国、ジパングの黄金を獲得しようという当時商業資本家の烈しい欲望」に基づいていた。それゆえ、「コロンブス、カボット、カブラルによって発見された土地に対する最大の期待は、そこに金銀、宝石または東邦物産と同じ香辛料その他の特殊物産があるかどうかということだけ」であった。だから、「新大陸発見後、最初に勇躍して渡ったものは、これらの宝物を目ざした、いわゆるconquistador(征服者)やbandeirante(探検家)たちであったのである(アンドウ・ゼンパ「近代移民の社会的性格(2)」『研究レポートI』1966年、サンパウロ人文科学研究所
Centro de Estudos Nipo-Brasileiros)。
そして、海軍は、「大航海時代以降、ヨーロッパ諸国の対外発展を支え、その安全面を担」ったというよりは、ヨーロッパ諸国のアメリカ、アジア侵略を支えたというのが実情である。最初に新大陸を侵略したスペインは、掠奪した「多大の富」を持ち帰ろうとして、「海賊船や私掠船に悩まされ」たので、商船隊を保護する護送艦隊を編成し、これが「近世ヨーロッパで最初の海軍」となったにすぎなかったのである(阿河雄二郎「近世フランスの海軍と社会」[金沢周作編『海のイギリス史』昭和堂、2013年、241−4頁])。
つまり、スペインは、国家として征服を推進したのではなく、個人的冒険に依存しており、まだスペインは覇権国家になれるような強国ではなかったということであり、それはオランダも同様であった。それに対して、次に興隆するイギリスは工業力をもっていたのであり、これがイギリスをスペイン、オランダと異ならしめたのであった。
前近代的帝国統治の延長 英国は、「本国と植民地とを法的に異質の地域として区別して、両者を有機的に結合」し、「政治的には支配従属の関係として、経済的には、本国の産業のために植民地に原料の供給と製品の市場の役割を求め」、「近代的帝国主義」を推進した。それに対して、オリバーレス(フェリペ4世の首席大臣)のスペインは、「あの膨大なアメリカという新世界の経営を、旧世界における前近代的「帝国」統治の単なる延長と心得ていた」(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』28頁)。
だから、1626年、オリバーレスは、バルセロナのカタルーニャ議会で、スペインでの「持論の特権的な『貿易会社』(オランダやイギリスのインド会社の真似)設置論を披露した」が、「バルセロナの富裕な商人たちは乗ってこな」かった。イギリスでは、「貴族が商業に従事することに違和感がなかった」が、スペイン、フランスでは「富裕な商人は海外に雄飛するよも、官職売買制度を利用して、高位高官、あるいは爵位を買い取った方がはるかに有利であった」(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』128−9頁)のである。
ポルトガル、スペインの侵略肯定論 1609年、ネーデルランドのグロティウスは『自由海論』で、ポルトガルが「発見・先占、教皇贈与、戦争、時効・慣習を論拠にインドとインドに至る海とインドとの通商に対して支配権を有する」と主張することを無効とした。グロティウスは、ポルトガル侵略正当化論を否定したのである。
これへの反論は、まずイギリスからあがったが、それは「イギリス近海の漁業権を擁護するため」(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』273頁])であった。次いで、ポルトガル王・スペイン王フェリペ3世はこれを批判し、『自由海論』閲覧を禁止したが、「ネーデルランドとの間で休戦条約が締結されたばかりである」事に配慮して、「スペイン人に反論を書かせようとしなかった」。ポルトガルは、1580年「連合王国の成立に当た」り、「ポルトガル人は海外領土の統治を含めて大幅な自治を認められていた」が、しだいにスペインにより「その約束は反古とされるようになり」、ポルトガルは「休戦条約の内容にも不満を持」ち始めていた(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』274頁])。
1625年、ポルトガル学者セラフィン・デ・フレイタスが『アジアにおけるポルトガル人の正当な支配について』を刊行し、「インドとインドへの海洋のポルトガルの支配が正当であることを論証するため」、「発見・先占、教皇贈与、戦争、時効・慣習」を提起し、特に「ローマ教皇の贈与を重視」したのであった(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』274頁])。
A スペイン侵略者の素性
アフリカ進出事情 「グラナダの不平分子の間には常に反乱の危険が満ち満ちており、しかも北アフリカの同胞がこれを煽っていた」ので、「海峡を越えてアフリカで聖戦を継続するというカスティーリャ宿願の計画」が推進されていた(J.H.エリオット、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡』岩波書店、2009年、48頁)。
しかし、15世紀後半の北アフリカでは、「アルジェ、モロッコ及びチェニス、山岳居住地と平地居住民、そして原住民とアンダルシアから少し前に来た移住民」などが「反目し合っていた」が、1505年に北アフリカに遠征隊を派遣した。摂政シスネーロスが積極的な遠征派であったが、フェルナンド国王は「北アフリカが軍事行動の舞台として重要でない」とした。スペインが、「北アフリカにしっかりと地歩を固めることに失敗」したのは、「フェルナンド(アラゴン王)、カルロス5世及びフェリペ二世(スペイン王)はみな、ほかの差し迫った問題に忙殺されていた」からであった(J.H.エリオット、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡』48−51頁)。
アメリカ征服 1519年に「パナマ建設によって、スペインはこの地域の支配権と最初の太平洋基地を獲得」し、同年に「エルナン・コルテス(キューバ総督ベラスケスの秘書)がキューバを足場にして行なった、勇敢にして輝かしいメキシコにあるアステカ帝国の征服」がなされた。コルテスは、「600名の兵士と16頭の馬」でアステカ帝国を打倒した(J.H.エリオット、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡』59−60頁)。
1531年、ピサロは、コルテスから「インディオとの戦いのコツはまず王を殺すことだ」という助言を得て、パナマを出発して、わずか二年間で「180人の兵士と37頭の馬」でインカ帝国を打倒した。以後1540年にかけて、「スペイン大帝国を獲得した」。これは、「ほとんど奇跡に近い驚異的な出来事であった」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』59−60頁)。だが、周知のように、そこには狡猾な謀略があった。
こうして、スペイン人は、「金銀を求めて、新大陸各地の探検と征服に勇敢に行動し」、「バルボアによって、まず太平洋が発見され、さらにメキシコのアステカ王国および南アメリカのインカ帝国の征服に成功し」、「16世紀の前半期の間に広大な新大陸の高文明の地域のスペイン領はことごとくconquistador(征服者)の手に帰した」(アンドウ・ゼンパ「近代移民の社会的性格(2)」)のであった。
またブラジルでは、ポルトガル植民者が、サンパウロを本拠として、「16世紀中ごろから、17世紀末にミナス・ゼライスに金鉱が発見されるまでの150年間、bandeiraという探検隊を組織して、今日のブラジル全土をくまなく探検して歩いた」(アンドウ・ゼンパ「近代移民の社会的性格(2)」)。
征服地の経営 これはまだ「アメリカ征服の第一段階」にすぎず、これを「保持」することが次の課題であった。「この第二のアメリカ征服には、カスティーリャ人の諸制度と生活様式を新大陸という非常に異なった環境に移植することが含まれていた」(J.H.エリオット、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡』63−4頁)。
スペイン人は、「畑と鉱山で原住民の労働力を搾取しなければ、新世界では生き残ることができなかった」。1493年教皇アレキサンドル6世の大勅書では、「無条件に、完全な政治的・領土的権利をスペイン王室に与えたのかどうか」、「これらの権利は、宗教目的に完全に従属し、スペインが異教徒を改宗させるという神聖な使命を果たしている場合に限って有効であるのかどうか」は曖昧だった(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』66頁)。
開拓者は、征服民の奴隷化を企図したが、レコンキスタでも「フェルナンドとイサベルは、カナリヤ諸島に奴隷制が広がるのを懸命に防いだ」ように、本国政府は1500年に「インディオを奴隷にすることは・・正式に禁止」した。だが、「人肉嗜食のような残忍極まる習慣を行なっているインディオは例外とされた」ので、コルテスはこれを悪用して「多数の男女・子供を奴隷」にした(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』67頁)。
一方、エンコミエンダが普及した。これは、「モーロ人から奪回した領土に対する管轄権」を「個人に一時的に下賜したもの」であり、元々は「中世カスティーリャの大宗教騎士団」に帰属していた。これをアメリカにも限定的に付与して、「そこでコロンは、労役に従事できるような一定の人数のインディオを入植者に割り当て」たのであり、1502年にコロン後継者・エスパニョーラ島総督のニコラス・デ・オバンドがこれを体系化して、「エンコメンデーロ(エンコメンダ所有者)は、少なくとも理論的にはあくまでも一時的なもので、世襲されないという原則に立って、一定人数のインディオに対する領主権を与えられた」。故に、「新世界におけるエンコミエンダ制は土地の占有形態ではなく、もちろん、土地の所有権とは無関係であり、インディオの土地所有権は形式上は尊重されていたことになる」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』68頁)。
こうして、16世紀中頃には、「新世界の経済開発は、奴隷制と、労役を提供するエンコミエンダ制という、よく似た二つの制度に依存するようになった」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』68頁)。
征服者の素性 征服や探検には「武装した部隊」を組織し、船舶を備える必要があり、「これらの隊長となったものは大部分がポルトガルおよびスペインの絶対制樹立後、封建領主の権力が弱体化して宮廷貴族となったものの次、三男や庶子達で、本国では爵位もなく冷飯に甘んじなければならなかった者や、
貴族でも地位の低い小貴族などであった」。特権階級の末端に位置する彼らは、「新天地で一旗あげて、富と名誉と社会的地位を得ようという野心にもえて、国王の許可をえて自費で出かけて行った」(アンドウ・ゼンパ「近代移民の社会的性格(2)」)。
当時、砂糖はヨーロッパでは貴重品だった。砂糖は「シリアやエジプト産のものが東邦物産としてヨーロッパへ輸入され」、13世紀から「イタリアのシシリア島で製造されるようにな」ったが、「製造技術はまだ幼稚で生産高が少く、値段も高価で、すこぶる貴重な品」であり、それゆえ、アフリカ大陸の北西岸に近いマデイラ島など「甘蔗栽培適地が発見されると甘蔗を植え砂糖の製造」を始めた。「砂糖の需要は激増する」と、「1460年にはアソーレス島で、1490年にはカナリ島でというように、甘蔗栽培の適地が発見される」と、「そこで砂糖が作られ」だした(アンドウ・ゼンパ「近代移民の社会的性格(2)」)。
ブラジルでは、「目ぼしい金銀鉱は見つからなかった」から、「気候や地味が甘蔗栽培に適している土地では、当時ヨーロッパ向け商品として、すばらしい利益の上った砂糖製造が企てられた」。スペイン人は西インド諸島で、ポルトガル人はブラジルの北東部の海岸地帯で、「大規模のプランテーション式の甘蔗栽培を始めた」が、「甘蔗が育たない所は、16世紀中は貿易を目的としては利用する方法がなく全く無価値の土地としてほとんど顧みられずに放置」されていた(アンドウ・ゼンパ「近代移民の社会的性格(2)」)。
こういう事情だったから、コロンブスが発見した「西インド諸島には金銀がないことが分る」と、コロンブスは、「マデイラ島から持って行った甘蔗の苗をハイチ島に移植し」、1511年には「キューバ島にも移植されて砂糖製造が始まった」。コロンブスは、「探検航海に出る以前マデイラ島の砂糖をヨーロッパへ輸送する船長をしていた」し、彼の妻は、「この島で砂糖農場をもっていた同郷のジエノヴア人の娘であ」り、コロンブスは砂糖に深い関わりをもっていた。また、ブラジルでも、「西インド諸島よりは少しおくれて、北東部の沿岸地帯に砂糖農場が作られた」(アンドウ・ゼンパ「近代移民の社会的性格(2)」)。
しかし、「銀の採掘」や「砂糖の製造」は、「スペインでも、ポルトガルでも、国王や総督から許可された特権階級のものだけにやれた事業」であり、「スペイン領ではエンコミエンダencomiendaという制度」、「ポルトガル領すなわちブラジルでは、セズマリアsesmariaという制度」によって「土地の用益権と現住民たるインジオを使役する特権」を与えられた。エンコミエンダは、「土地とそこに住んでいるインジオの用益権」で、「インジオを奴隷とすることは許されな」かった。セズマリアというのは、ポルトガル王が「領土になった地域を15の広大なカピタニアと称する封建領に分けて、この用益権と統治権を貴族または国家功労者に与え」た分譲地であった(アンドウ・ゼンパ「近代移民の社会的性格(2)」)。こうして、末端貴族らは、アメリカ大陸で国王・総督から土地用益権・統治権をもつ「領主」に任じられたのである。
3 黄金時代
@ 黄金時代
黄金時代 「フェルナンド(夫、アラゴン国王)とイサベル(妻、カスティーリャ国女王)によってつくられたスペイン(1474年共同即位ー1504年イサベル死去でフェルナンド退位、1516年フェルナンド死去)は、外見的には多くの点で『新しい君主国』という理論的なモデルとはあまりにも異なっていた」。フェルナンドとイサベルは、「大スペイン王国の将来の発展は、国家を本質的に世襲的な性格を持つ王室財産とみなす考え方に強く影響され」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』75頁)ていた。このカトリック両王の時期を中心に一般に「黄金期」というのである。
そして、以後の1560−1660年、スペイン優位は「ヨーロッパの政治状況の中で最も顕著な事実」ではあったが、「つづく数十年のその崩壊もそれに劣らず顕著」(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』35頁)であった。セルバンテスは『ドン・キホーテ』で、1605年にドン・キホーテに「過去の『あの幸福な黄金時代』」と懐古させ、以後18世紀まで、「スペイン人たちはほぼ異口同音にカトリック両王期を『黄金時代』とみなした」(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』2頁)。黄金時代は、フェルナンドとイサベルがスペインを統一した「伝説的成功の数世紀からなる神話」であり、「一つの思想の反映」であった(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』131頁)。
スペインの経済的遅れ オリバーレスは、「オランダとイギリスの急速な国力伸張に深く感銘を受け」、純血令・騎士団令で「貴族が商工業に従事しようとすれば、あらぬ疑惑を受け」ていたことから、「スペイン人がとかく商工業を賎業扱いするのを憂え」た。元駐英大使ゴンドマル伯は、「イギリス、オランダに見習って通商航海を振興する」事を提唱した(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』257頁)。
そこで、ゴンドマル伯は、スペインに1622年海事委員会を設置し、後に「国務院の下部組織として、通商院の設置を提唱し」、1624年には特許状を与えて北欧諸国海事庁を設置したが、いずれも失敗した(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』257頁)。後述の通り、概してスペインはアメリカ大陸経営から大きな利益を得ることにも失敗したのである。
A スペイン帝国
スペイン帝国 この黄金時代はまた帝国時代でもあった。
ローマ帝国が、「後のヨーロッパでは帝国の正統性の源泉となった」。ローマ皇帝の帝位は、「ローマ帝国の滅亡以来ローマ法王が保管」していて、紀元800年にローマ法王から「フランク王国のカール王(カール大帝、シャルルマーニュ)がローマ皇帝に戴冠」された。10世紀中葉、神聖ローマ帝国が成立し、ローマ法王の手続きで、「ローマ帝国復興の夢がまた蘇」り、血統ではなく、「何人かの選帝侯の間の選挙」で選定した。こうして、「ヨーロッパ世界では、帝国ないし皇帝の称号は、特別の歴史的経緯の裏づけのある正統性を根拠」とした(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』中央公論社、1996年、15−6頁)。
カール5世(神聖ローマ帝国のローマ皇帝[1519−1556年])=カルロス1世(スペイン国王[1516−1556年])は「自分の領土について壮観なイメージをもた」ず、大法官ガッティナーラ(ピエモンテ貴族)は「帝国という言葉は主権を行使する能力」と見て「対外的拡大という言外の意味」を見なかった。ドミニコ会修道士の多くも、「祖国の一体性を脅かすのであれば、世界支配をめざした普遍王国という概念に反対」した。著述家たちも、「ハプスブルク朝の時代を通じて、スペインの未来はヨーロッパにではなく、地中海にかかっている」という反帝国主義感情を抱いていた(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』37頁)。
一方、スペインを帝国と見る意見もあった。聖職者で施療院学長ドン・ペドロ・サラザール・デ・メンドーサは、「スペイン帝国はローマ帝国の20倍もの大きさだから王国という言葉はもはや適切ではない」とし、ファン・デ・サラサール(パラグアイのアスンシオン建設者)は、この説を信じて、「王国という言葉ではほとんど全世界の支配を意味することもあるのであれば、スペイン帝国は王国と呼ばれても正しい」とした(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』38頁)。
こうした「二つの対立する潮流」は、「スペインが帝国勢力として振る舞っていた時代全体を通じた見出され」、「ラス・インディアス征服の正当性」をめぐる「公の学識ある論争」や、「王の顧問会議」でも表面化した。フェリペ二世の秘書官アントニオ・ペレスに関する研究で、マラニョン(1887−1960年)は、「一方にアルバ公爵の帝国主義的姿勢、もう一方にエボリ公ルイ・ゴメスの自由主義的見解という二つの主な意見が存在した」とする。仮に「王もその主たる忠告者たち(エボリ公、グランヴェル枢機卿、アルバ公爵)も一度として積極的な併合政策に与する言を発したことはなかった」(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』38頁)としても、アメリカ大陸植民地化はスペイン帝国の重要な証拠である。
スペインの「王国におけるリーダーシップ」への「自負心」が、「ほぼ当初から、スペインはその巨大な権力と富とで帝国を独力で作り上げた」という確信を生み出し、また、北ヨーロッパより銀行業で優れ、戦争技術もヨーロッパ随一であり、「大きな軍事的能力と無尽蔵の財政的資産」があったとした。しかし、これは、現実には、「スペインがヨーロッパ大陸の中でもほとんど後進の地域で、帝国はもっぱら王位継承によって出現した」という事実を無視した(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』39頁)。
カルロス5世統治の実態 「神聖ローマ皇帝カルロス5世(カール5世)は、1517年から1556年・・までスペインを支配」したが、「スペイン自体で過ごしたのは16年に満たなかった」から、「当面の問題は、カルロスの度重なる不在中、だれがスペインを治めるべきかということであった」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』179頁)。
1556年には、フェリペ2世がスペイン国王に即位した。「カルロス5世(移動する「戦士的」国王)とフェリペ2世(「動かずに一ヶ所にとどま」る国王)治下のスペインの歴史の中で」、戦争遂行と官僚制整備(「スペインとその海外領土を治め、戦争に備えてこれらの地域の資源を結集するには非常に多くの収入が必要であった」)が重要課題であった。「大スペイン王国の統治機構を効果的に運営するには、皇帝が長期にわたって自分のさまざまな領土と慣習を几帳面に遵守することを強く求めてくる」ことに配慮する必要があり、王国の全般・各地に関する「いろいろな諮問会議』が設置された(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』186−9頁)。
「近代史の最大の特徴はヨーロッパの拡張とその世界支配にあ」り、「この近代史の中でスペインは最初の覇権国家とな」り、ハプスブルグ朝スペインは「スペインが追求した信仰による自国およびヨーロッパの統合」という汎ヨーロッパ政策を推進した(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』NHK出版、1992年、85−6頁)。
そして、17世紀初め、「鉱山を操業する費用の増大、植民者の自給自足体制の強化、新世界における副王政府の莫大な出費、そして、おそらく世界の銀価格の下落」で、「アメリカからの銀の流入が徐々に枯渇」し、スペインで「経済改革に取り組むことが、ますます緊急の課題」となった(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』364頁)。
B 国 富
@ 羊毛産業
厳しい自然 スペインは、「乾燥して、痩せた、不毛の国土ーその10%はむき出しの岩地、35%はやせた不毛の土地、45%は並みの土地、肥沃な土地はわずか10%」で、ピレネー山脈の障壁によってヨーロッパ大陸から南の海岸まで伸びている、高い中央台地によって分断され、その内部でいくつにも分かれている国」で「地勢的に中核をなすものもなければ、平坦な交通量もない」のであった(J.H.エリオット、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡』岩波書店、2009年、1頁)。
概して、スペインは、農業には不向きで、農業生産性の低い国であり、農業には国富を求められない国であった。
戦争の常態化 しかも、スペインでは戦争が日常化していた。
711年から1492年まで、「イベリア半島に居座った『イスラーム教徒』」との戦いがあった。723年、イスラム軍はピレネー山脈を越えて、ガリア征服を試みたが、トゥール・ポワチエ間の戦いでフランク王国に撃退された(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』早稲田大学出版部、1998年、11頁)。
そして、カルロス1世の下で始まった戦争は「ハプスブルグ体制をめぐるヨーロッパ政治の動向に端を発する戦争」であり、こうしてスペインは初めて「ヨーロッパの政治舞台に引き出され」、プロテスタンティズムとカソリックに分断された「泥沼に足をとられた」のである(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』67ー71頁)。16−7世紀、「王朝間の反目、宗教上の対立と憎悪、国民国家志向の加速化、ヨーロッパ史の舞台の大西洋への拡大」で、ヨーロッパの至る所で「様々な戦争が続発」した(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』71頁)。
こうして、スペインは、@1519年カルロス一世がフランス・フランソワ一世と争って神聖ローマ皇帝に選出されると、フランスと対立し、A「レコンキスタで異教徒と戦ってきた」が、今度は新教という「ヨーロッパでの新たな異端」に直面し、B「ヴォルムスの帝国議会(1521年)で自説を貫き通したルターの周りには、政治的な思惑を秘めたドイツの諸侯が集ま」り、1530年「シュマルカルデン同盟を結成し」、「カルロスに対決姿勢を示し」、宗教論争は「ヨーロッパ全土を血みどろの戦場に変え」た(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』71−2頁)。
牧羊業の開始・展開 こういう中で古代から着手されていた羊毛業が発展していった。
スペイン牧羊業は、@紀元50年頃、スペイン南部のカディスで、「農学者ルチウス・コルメラが、ローマの富の象徴であったタレンティーネ種と、アジア系や北アフリカの羊及びスペイン土着の羊とを科学的に交配」し、「メリノ種の原型」がつくられ、Aゲルマン民族大移動で「半島の牧羊業は壊滅」したが、711年ジブラルタル海峡から北上したベルベル人が牧羊業再興をはかり、「北アフリカから連れてきた大量の羊とスペインに残されていた羊を交配して品種改良を進展」させ、さらに「6世紀から行なわれていた移動牧羊を本格的に定着させた」(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』早稲田大学出版部、1998年、12−3頁)。
メリノー種の画期性について補足すれば、一般に羊の毛(フリース)は、上毛(ヘアー)と下毛(ウール)との二層からなり、「野生羊からヘアーを取り除いて、柔らかで紡ぎやすいウールを・・増やすこと」が、「数千年にわたる牧羊史の変わらぬテーマ」であり、中世スペインで「ヘアーが一本も混じらない極細で純白のウールだけを産する『メリノ羊』」を生み出したということなのである(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』12頁)。これがスペイン富源の一つとなる。
牧羊業の隆盛 1273年には、カスティーリャ王アルフォンソ10世は、「王国の移動牧羊業者組合を糾合」して特権的ラ・メスタ(会議)を結成して
、これが羊毛業発展の触発剤となった。つまり、「ラ・メスタの繁栄=殖産興業と軌を一にして」、カスティーリャ王国は、@「メリノ羊がもたらす『富』を手に入れただけでなく」、A「この地域の重要な産業(ローマ時代以来の小麦・オリーブ・葡萄などの生産)管理体制を、ラ・メスタの維持管理のために設置された官僚機構を利用して一元化する手掛かりを獲得し」、B「移動牧羊を大規模にてがけていた」貴族階級や教会の支持を取り付けたのであった(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』15−6頁)。スペインでは、「王権は重要な収入源である羊毛生産をメスタという特別な機関を設けて保護育成し」、農民と衝突し被害を与えつつ、「羊群は夏は北部へ、不輸は南部へと季節移動」した(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』76頁)。
13世紀末には、「イングランドで、羊毛は国富の半分を稼ぎ出し」ていたが、スペインでは「さらにそのウエイトは高かった」(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』16頁)のである。16世紀初頭フイリップ1世(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の皇子、スペイン・ハプスブルグ王朝の始祖)は「メリノ羊は王室から門外不出」とし、メリノ羊は「スペインが独占状態を謳歌した」(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』16頁)。
母ファナ(スペインの王女)と父フイリップ1世の間に生まれたカルロス1世(在位1516−56年)のもとで、羊毛が「カスティーリャ経済の主力」で「フランドルへ・・輸出」された(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』65頁)。スペイン(厳密にはカスティーリャ)が「16世紀初めから17世紀にかけて『太陽の没することがない』ほどの隆盛」をしたのは、「人類が2000年にもおよぶ品種改良の末ついに固定するのに成功した『メリノ羊』」(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』11頁)による。
最盛期の16世紀前半には、羊は300万頭もいて、17世紀には約1000万頭になった(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』16頁)。「ヨーロッパ各国の垂涎の的だったメリノは、18世紀半ば以降スペイン王室外交の手土産としてわずかながら各地に広ま」ったが、18世紀末に、イギリスは、密輸でメリノ種を手にいれ、オーストラリアに輸出する(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』16頁)。
16世紀以前は、「イベリヤ半島は経済も資源も乏しくて、食料する輸入せねばならなかった」が、「16世紀前半に、突如としてカスティーリャは前例のない繁栄の局面を経験」し、「産業が発展し、人口が増え、生産高も増え」、「カスティーリャは世界的規模の帝国の一部をなしており、結果として様々な形でその恩恵を受け」、「カスティーリャに生じた富、成功、権力は、カスティーリャ自体からだけでなく、複合王政を構成する諸社会の資源に由来」した(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』63頁)。
メリノ羊の衰退 「16世紀に頂点を極めたスペイン・カスティーリャ王国の繁栄」は、@「カスティーリャ地方は、湿潤な土地を嫌うメリノ羊の飼育には好適であっても、人間が住むにはいささか過酷」であり、「ラ・メスタに保護された移動牧羊」による富が、カソリック両王のコロンブス支援、カルロス1世のマゼラン支援を可能にし、Aイギリスとは異なり、スペインでは、羊毛業の富は「王侯貴族や教会」をますます富ませただけであり、「牧羊業で生み出された余剰が蓄積されて『資本』となる途が最初から閉ざされ」、B「王室の主たる関心は、カスティーリャ、サンタンデール、アントワープを結ぶ遠隔地貿易にあったから、「初期資本主義のもう一つの芽となるべき毛織物産業も成長しなかった」(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』17−9頁)。
18世紀には、「カタルーニャに根を下ろした繊維産業は、・・羊毛ではなく、木綿」であり、しかも「18世紀末まで綿紡績よりも綿織物が優位にあって、1783年にカタルーニャ製の綿織物の72%は輸入綿糸で織られていた」(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』19頁)。1808−14年、ナポレオンのスペイン侵略で、数千頭のメリノを戦利品として捕獲し、国際競売にもかけ、「スペイン帝国の伝統的経済基盤」は崩壊した(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』16頁)。
A 植民地金銀
金銀流入 1503−1660年、「ヨーロッパ銀保有量のほとんど3倍にあたる1600万キログラム(16,000,000kg=1万6千トン)の銀がセビーリャに到着」し、18万5000kgの金が輸入され、これによって、「ヨーロッパの金の供給量の5分1に当たる量が増えた」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』201頁、戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』19頁)。ハミルトン推計(Hamilton,E.J,1934,"American Treasure and the Price Revolution in Spain,1501-1650.Harvard Economic Studies,vol.43,1934)でも、1503−1660年銀1万6977トン、金181トンとしている(平山健二郎「16世紀『価格革命』論の検証」『経済学論究』関西学院大学、58巻3号、2004年)。
林屋永吉氏らは、アメリカからの金銀流入状況を見れば、@16世紀には、「アンティーリャ諸島(カリブ海の諸島)の砂金、続いてメキシコとペルーから戦利品の金銀が送られ」、A次いで、16世紀中頃から、「メキシコのサカテカスやグアナツアート、そしてペルーのポトシーと、銀山の発見が相次」ぎ、16世紀後半スペイン流入銀は増加し続け、1503−1660年、スペイン流入量は、銀25,000トン、金300トンであったと(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』77頁)、上記推計より多めに算定している。
スペインの金銀輸入の取り分内訳は、@王室取り分は「託送品の約40%」(「キント・レアルと呼ばれる五分の一の権利」、インディアス納税金)であり、A個人取り分の大部分は「新世界へ船積みされた商品の支払いのために、アメリカの商人からセビーリャの同業者に送られてきたもの」であった(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』203頁)。@について、補足すれば、「国王の年収の4分の1弱は、アメリカから送られてくる銀が占めていた」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』321頁)。
経済活性化 「アメリカからの貴金属の輸入」が、「需要を刺激し、商業に活気を与え、住民各層を豊かにし」、「軍事費の支払いをも助け」、「カスティーリャの経済成長」と「ヨーロッパの強国としてのスペインの出現」とに「際立った貢献をした一つの要素」であった。1540−1700年、「新世界は約五万トンの銀を生産し」、その7割はポトシ銀山(「当時のペルー副王領に含まれるボリビアの銀山」)であった(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』岩波書店、2009年、63−4頁)。
物価騰貴・経済不振 一方、金銀流入はネガティヴな効果をももたらし、こちらの方が深刻だった。「全ヨーロッパに存在した量の数倍にのぼる銀が陸続と流入した時」、物価は3−4倍騰貴して、人口増加とともに、所謂「価格革命」を起こして、「バルセロナ・セゴビア・コルドバなどの毛織物生産者」は「フランドルに輸出して、そこで加工するほうが安く毛織物製品を入手できる」という悪夢に襲われた(戸門一衛・原輝史編『スペインの経済』19頁、ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』岩波書店、2009年、64頁、平山健二郎「16世紀『価格革命』論の検証」『経済学論究』関西学院大学、58巻3号、2004年など)。
なぜなら、この物価騰貴は、賃金を騰貴させ、「製品は国際市場での競争力を失った」からである。これに対処する政策も、経済不振を促進した。つまり、@「品不足解消のために輸入が促進され、輸入品の国内での販売価格を安く抑えるためにこれを免税と」して、輸入はますます増加し、国内産業復活の可能性はなくなり、A「国産品の国外流出を防ぐという理由から輸出品に課税」(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』NHK出版、1992年、77頁)して、輸出減退して、国内産業は一層不振となったのである。
結局、流入銀塊は、「人口の増大と農業の変化」を原動力とする価格革命を促進し、当時の交易を支配していた外国銀行家を儲けさせ、「イベリア半島は、輸出入者というよりは、植民地から受け取った富を他の諸国へ分配するための経路の機能を果たす」だけになった(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』64頁)。つまり、スペインは「西の商業交差路であったが、その(アメリカ大陸植民地)貿易から利益を得ることに失敗し、ヨーロッパ商人たちの植民地とな」り、「インディアスの金銀の受け取り人たるその住民は貧困の苦しみを経験しはじめ、それが幾世代も続」き、「必然的に、17世紀の著述家たちは帝国の経験全体を悲劇的失敗と断ずるようになった」(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』132頁)。
さらに、金銀流入増加によって、国王は「スペインが必要とする戦費を永久に保証してくれる」と錯覚し、金銀担保に金融業者から借金して、「スペインの軍事的敗北の背後には経済と財政の惨憺たる状態があった」(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』76−7頁)のである。
この王室財政の借金漬けを打開しようとして、国王は課税強化をしたのである。つまり、インディアスの金銀は「インフレによって国内産業を壊滅させ、人々の労働蔑視を助長し、王室財政を借金漬けにし」て、これを打開しようとして、「国王は議会に臨時税の徴収を頻繁に要求し、最後には生活必需品にまで課税」し、国民生活を窮迫させ、スミスが『国富論』で指摘するように、「インディアスの富によってスペインは貧しくなった」(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』79頁)のである。
こうした観点から前記黄金時代を見るならば、黄金時代とは「少数者」にとってのものであり、「多くの人々には存在しなかった」のであり、黄金時代とは少数者の神話に過ぎなかったことが再確認されよう。だから、19世紀のスペイン人の多くは「黄金時代を否定し、それを専制政治と偏屈と人種差別の時代」としたのである(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』132頁)。
4 スペインの衰退
@ スペイン脆弱さ
1560年からスペイン帝国は興隆し、1580年にはスペイン・ポルトガルの連合王国が成立したが、以後も「ポルトガルはスペインの統治から自立的に帝国を運営」したり(合田昌史「ポルトガル・スペインと海」[金沢周作編『海のイギリス史』昭和堂、2013年、270頁)、1572年「オランダの事実上の分離独立」、1588年無敵艦隊敗戦などに、スペイン衰退の兆候は既に兆していた(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』318頁)。さらに、上述指摘をも踏まえて、スペイン脆弱さを整理すると、次のようになろう。
財政・経済基盤の脆弱さ ヘンリー・ケイメンは、「同盟諸国の実質的支援に支えられて、スペインはその帝国としての役割を果たし、戦争の費用を負担することができた」とする。スペインは、「自らの利益を守」るために、1588年無敵艦隊、1590年フランス侵略など「防衛的政策は必然的に過激」になった(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』44−5頁)。その結果、「カスティーリャは外国との関わりに引き込まれ、(アメリカ産金銀を担保にして)国の歳入の大半を吸い取られ」(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』47頁)た。
さらに、ヘンリー・ケイメンは、スペインの脆弱さは「適切な人的資源、産業資源(羊毛産業にとどまり、綿紡績業を生み出せなかった)を持たなかった」事にも根ざし、「カスティーリャは長期にわたって帝国の計画を維持するには能力不足だった」ことが、「根本的な事実」であったと指摘する。だから、フェリペ2世治下、「資金はカスティーリャが提供し」、「人員と軍需品は同盟諸国が供給していた」が、「破滅的な国の負債がそれ以上続けることを不可能にし」たのである。しかも、「帝国の権力に伴う義務が、スペインの関与する領域を過度に広げることを余儀なくさせ」(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』58頁)、カスティーリャの脆弱性を拡大した。
外国への依存 ヘンリー・ケイメンは、外国依存について、具体的に、@カスティーリャ人は「異端審問所、外国の資本家たち、悪しき王、環境活動分子たるユダヤ人」などは「ほとんど統制のできなかったとする諸要素」であるとし、A反教権主義者は「教会のせい」にし、B最近研究は「征服によらずに手に入れた帝国の指導的地位から利益を得るチャンス」を失ってしまったからだとし、現在は、「いかに、なぜに、そうした状態が生じたのか」が論争になっているとする(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』131頁)。
ヘンリー・ケイメンは、「世界的王国の指導的地位にありながら、その指導力を維持するために、スペインは完全に外国の資金、外国の軍隊、外国の船舶に頼ってい」て、こうした「歴史上の他のどんな帝国にもみられない倒錯した状況」に直面していた事を考慮すれば、「ほとんど当初から、スペインの経験がローマ帝国の成し遂げたことを上回ることはない明らかな兆候」があったとする(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』131−2頁)。
さらに、外資依存について見れば、カスティーリャは、「フェリペ二世の帝国の拡張をめざした冒険を遂行する上で」、無敵艦隊だけでも1000万ドッカードもかかって、「過酷な負担を強いられた」ので、「多額の借金をさらに大きくし」て、「1590年代に、カスティーリャ経済には破綻をきたし始めた」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』321頁)。結局、負債額はカルロス1世時に2000万ドゥカード、フェリペ2世時に実に1億ドゥカードと膨れ上がったのである(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』NHK出版、1992年、77頁)。しかも、無敵艦隊を作ったスペインは、「じつはしっかりした正規の海軍を創設」できなかったのである(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』59頁)。
既に「フェルナンドとイサベルの時代から大きな負債を背負っていたカスティーリャの財政資産」は、「イベリア半島外の陸・海軍の軍事行動」の費用を支弁できず、スペイン支配者は「アメリカからの貴金属」を根拠にジェノヴァの銀行家を信用貸し操作に利用して「為替手形という信用状」を使った。ジェノヴァ銀行家は、「初期のスペインの新世界への航海への融資で重要な役割を果たし」、「スペインの対インディアネス貿易拠点港であるセビーリャでその報酬を受け取った」(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』43−4頁)のである。
A ネーデルラント独立問題
カスティーリャにとっては、ジェノヴァからの借入資金と同じくらい、ネーデルラントの納税資金は重要な意義をもっていた。しかし、それはネーデルラントにとっては耐え難い負担であった。
ネーデルラントのスペイン支配関与 アラゴン国王のフェルナンドは「ナポリ王国、シチリア王国などの属領」をもち、カスティーリャ国王のイサベルは「アメリカ政策」を推進し、「二つの王国をあわせたスペインの領土はすでに膨大」であった(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』中央公論社、1996年、11頁)。
1504年イサベルが死去すると、カトリック両王の王位継承者はファナ女王(フェルナンドとイサベルの次女で、イサベル死後に「カスティーリャ所有者としての女王」)となる。その夫がハプスブルグ家のフェリペ美男公であり、ここに「スペイン王家は宿命的にウィーンのハプスブルグ家と結びつく」ことになった。その長男カルロスはスペイン国王カルロス1世(在位1516−1556年)となり、「ハプスブルグ家の正当な継承権」を持つものとして神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519−1556年)にも推戴された(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』11−2頁)。
こうして、スペインは、「ハプスブルグ王家の指導の下に帝国としての道を歩み始め」、「カスティーリャに外国の王朝が樹立されたことにより、カスティーリャは、ヨーロッパの諸問題に外交的に関与する機会が思いもかけず多くなってい」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』137頁)くのである。つまり、「イサベルの死の瞬間から、スペインの運命は、(ハプスブルグ家の)ブルゴーニュの宮廷の出来事と密接に結びつくつくようにな」り、「ファナとフェリペ大公(フランス王家とスペイン・ハプスブルグ家の出身、ネーデルラント居住。フェリペ1世)が、彼らの組織したスペインを引き継ぐために待機し」、「その後、数年にわたって、カスティーリャとネーデルラントとの間には、絶えず人(猟官工作者、秘密情報員など)の往来」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』143頁)が見られだした。
1505年11月、フェルナンド、ファナ、フェリペ大公は「三分割統治を内容とする妥協案」に署名し、1506年にフェリペ大公はネーデルラントからカスティーリャに向かい、フェルナンドを軍事的に征圧しようとした。しかし、結局、1506年6月にフェリペはフェルナンドと協定して、「フェルナンドは、カスティーリャの統治権を彼の『最愛の子供たち』に引き渡し、アラゴンに引退すること」を約束した。しかし、9月フェリペ大公急死で、フェルナンドがしばしカスティーリャ政府に復帰し(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』148−9頁)、ハプスブルグ家との関係は蒸し返されだした。
ネーデルラントのスペイン貿易関与 ネーデルラントは、スペインのアメリカ貿易の展開に関与してゆく。つまり、「インディオスの発見」によって、ネーデルラントと「スペインとの結びつき」は、「羊毛・ぶどう酒・油などの伝統的なスペインの輸出品に、さらに植民地の生産物とアメリカの銀が加わ」り、「ネーデルラント商人にとっていっそう価値のあるものにな」り、ネーデルラントの輸出の3分1がスペイン向けとなったのである(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』147頁)。
ネーデルラントの反乱 スペイン帝国時代でも、スペインは単独で帝国財政を支弁できず、外資の借入や「幾つかの諸国」の負担によって帝国機能を果たしていただけであり、諸国の不満で帝国機能麻痺に陥りかねなかった。特に、カルロス1世=カール5世治下、1530−60年代、ネーデルラントの特別課税は「急速に増大」したのであった。
これに対して、ネーデルラントは、これに異議申し立てをしたが、ネーデルラントは「スペインにとって大きな戦略的・経済的価値」があったので、スペインはこれに「厳しい態度」をとった。これに抗議して、ネーデルラントが反乱を起こすと、スペインは「宗教的要因を強調」して、「急速に反乱鎮圧のための戦争へとなだれこみ」、「70年以上にわたってスペインの軍事資金を食いつぶすことになった」。なお、イタリアでも、「重い課税負担が積もって、スペインの支配はナポリ(1647年)とメッシーナ(1674年)での深刻な反乱を引き起こした」(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』58頁)。
B 三十年戦争
スペインの対オランダ・フランス戦争 ドイツ三十年戦争(1618−1648年)は基本的にはカトリック諸侯とプロテスタント諸侯の戦争だが、「同じプロテスタントでも、カルヴァン派とルーテル派とは不倶戴天の敵対関係にある」から、「単純に神聖ローマ皇帝をリーダーとするカトリック諸侯と、皇帝の機能を制限しようとするプロテスタント諸侯との間の宗教戦争」として割り切ることはできない。そこには、「ドイツにおける『国民国家』建設の主導権をめぐる抗争、すなわち政治的闘争」もあり、「ハプスブルグ王朝によるドイツの『国民国家』建設」をめぐる争いという側面もあった(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』76頁)。
三十年戦争の間、スペインは、「ボヘミア、ドイツ、ベルギー、イタリアに軍をおき、ブラジルとアメリカには海軍を派遣し、北アフリカ、ポルトガル、スペインには防衛軍を置」いていたから、「敵対勢力、主に1648年までのオランダと、1635年の宣戦布告以降のフランス」との争いが、「すでに負担のかかり過ぎていたスペインの軍事機構に耐え難い緊張を与えた」(ヘンリー・ケイメン、立石博高訳『スペインの黄金時代』58頁)。
特に、後者の「スペイン(首席大臣オリバーレス)とフランス(首席大臣リシュリュー)」の戦争は、17世紀の前半、「ドイツの『三十年戦争』への介入を契機として、宿命の対決から全面戦争に至」った。オリバーレス率いるスペインは、「世界帝国」の維持という課題と、国民国家という「近代特有の政治的理念」という「二つの巨大な課題」に取り組んだ。一方、フランスは、「オーストラリアの神聖ローマ帝国、及びスペイン帝国」という二つのハプスブルグ王朝に挟まれて、近代的国民国家を構築して生き延びようとする(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』7−9頁)。
スペイン戦線の拡大 1630年3月、オランダは、スペイン帝国の一部ポルトガルの植民地「ブラジルの東北部の要衝『レシフェ』」を占領したが、「ポルトガル人は、素朴なナショナリズムにより、スペインの支配にいまだに釈然としていない」ので、オランダに反撃しなかった。そこで、オリバーレスは「スペイン王室の威信にかけても速やかに『レシフェ』を奪取」しなければならなくなり、「1621年に終了した休戦協定を、単純に更新することすら不可能」となり、「艦隊を派遣したが疫病のために挫折」した(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』201−2頁)。
一方、同じ1630年3月、フランス軍はスペイン支配下の「(イタリアの)ピエモンテのピネローロを占領」したので、スペインは「オランダと北イタリアとの二正面作戦」を余儀なくされた(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』201頁)。
スペイン帝国の軍費負担限界 スペインが遂行する対オランダ戦、対イタリア戦、対フランス戦で、カスティーリャ王国のみが、「軍隊を派遣し戦費を負担」し、アラゴン王国、ポルトガル王国などの王国は「一切協力を拒否」した。そこで、オリバーレスは、統合軍と各王国の特別税・貢納金負担を求めたが、これには失敗した(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』25−6頁)。
スペインは多くの地域的特権を持つ王国からなり、絶対主義導入の「最も重大な障碍」となっていた(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』223頁)。さらに、1630年代、マドリッドとウィーンは「同一の王朝(ハプスブルグ王朝)の下にあり、同一の世界戦略を共有する関係にあり」、「スペインから見れば、膨大な補助金を与え、軍事的にも支援してきた」のに、ウィーン皇帝の言動は「とかく曖昧に終始するとの不満」をもっていた(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』241頁)。
それに対して、フランスの場合、唯一の域内王国ナヴァル王国はルイ13世親征で国王直轄地となり(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』223頁)、絶対
主義成立の基盤ができていた。だが、「フランスには、いまだ、常備軍の制度」はなく、「フランスの軍隊は、基本的に傭兵」であった(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』236頁)。
C 西仏戦争
フランスとスペインは、1631年マントヴァ継承戦争(フランスがスペイン・ハプスブルク家領土の北部イタリアのマントヴァに侵攻した)終結後の1635年に「全面的に『西仏戦争』に突入」し、1659年まで約30年間続くことになる(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』201頁)。
西仏開戦 1635年2月、フランスはオランダと攻守同盟条約を締結し、4月1日フランス国王は枢密院会議でスペインへの宣戦布告を決定し、4月28日にフランスはスウェーデンとの同盟関係を確保した。5月19日、「ブラッセルに、フランス国王の『布告軍使』が現われ」たが、スペインのフランドル総督フェルナンド王子・枢機卿はこれを拒否した(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』239−241頁)。一方、1634年10月、両ハプスブルグ王朝の「マドリッドとウィーンの間に攻守同盟条約が調印」された(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』242頁)。
以後、この西仏戦争は、1636年スペイン優勢、1637年フランス優勢と、「戦局が二転三転して劇的な展開をたど」(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』251頁)り、その過程でスペインはますます衰退していった。
ウェストファリア条約 1648年ウェストファリア条約によって三十年戦争は法的に終了したが、この戦争は「直接または間接に欧州世界をすべて巻き込む複雑な戦争」で、「戦争の後始末も、長期にわたり、多角的で複雑極まる過程をたどった」(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』327頁)。
ウェストファリア条約は、「多数の条約文書」からなり、@ドイツでは信教の自由が保障され、領邦国家の主権が認められ、「ドイツの細分化は温存され」、「政治の近代化は遅れ」た事、Aフランスとスウェーデンは勝者だが、「互いに牽制して成果を潰しあ」い、フランスは、アルザス、ロレーヌ、数都市の支配権・保護権を確保したに過ぎず、スウェーデンはポメラニアの西部とブレーメン付近を支配するにとどまった事、B「フランスの強い要求により、ウィーンの皇帝は、スペインとの連帯共同体としての政治的靭帯(じんたい)を断念した」事、C「オランダは、長い間の武力紛争により、スペインからの事実上の独立を達成していた」が、1647年「法的承認を得た」事、Dスウェーデンは「神聖ローマ帝国の帝国議会の議席と投票権を獲得した」が、フランスは「同様の要求をしたが、実現しなかった」事などが指摘される(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』329−331頁)。
特に「解決不可能と思われるオランダ人の問題」は、フェリペ2世(1556−1598年)、フェリペ3世(1598−1621年)、フェリペ4世(1621−1640年)まで付きまとっていたが(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』363頁)、この条約によって、オランダはついにスペインから独立したのである。一方、フランスは、@ドイツの大国化を阻止し、A「スペインから国際政治の覇権を奪う目的も確保」して、「戦争目的」を達成し、スウェーデンは「スカンディナヴィアの弱小国から出発して、ドイツを軍事的に制圧することにより、欧州列強に伍する地位を得た」(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』331頁)。
カタルーニャの動乱 スペインは、フランスとの戦争で一進一退し、1640年1月、「スペイン軍は前年夏に占領されていたサルセス(サルス)要塞を奪回」し、「カタルーニャの前進基地は確保され」、「この際フランスに攻勢をかけて交渉に有利な態勢を獲得しよう」とし、スペイン首席大臣オリバーレスはカタルーニャに「兵力の拠出と付加的な財政負担」を課そうとした。だが、フェロス(地域的特権)を盾に反対された。さらに、民衆が宿営軍人への食料負担を忌避して「軍隊の宿営問題」がおこり、民衆暴動が起こり、6月「副王」サンタ・コロマ伯(カタルーニャ生まれ)が殺害され、「カタルーニャの事態は悪化するばかりであった」。10月、オリバーレスは3万5千余のカタルーニャ征討軍を派遣して、これを鎮圧した(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』278−282頁)。
1640年10月、オリバーレスは「ブラジルでオランダ支配を排除するために、カスティーリャの援助を期待」していたポルトガルの貴族階級にカタルーニャ征討を命じると、12月にハプスブルグ家のポルトガル支配(フェリペ2世、フェリペ3世、フェリペ4世がポルトガル国王の兼ねた)を嫌って、ブラガンサ公はポルトガルでクーデターを起こし、ポルトガル国王ジョアン4世に即位した(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』287頁)。
1641年初め、戦況悪化して、オリバーレスはオランダに、「現状を追認して、ブラジルの分割まで認める平和条約」をしたが、オランダは強気になっていた(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』292頁)。一方、「フランスでも各地に騒擾が絶え」ず、1639年にノルマンディー地方に反乱が起きたが、リシュリューらは峻厳に処罰した。さらに、1640年、リシュリューは、カタルーニャ反乱側の保護を受けて、カタルーニャー側と「フランス艦隊にカタルーニャの港湾の使用」、3千人のフランス軍駐留兵の負担の支弁を取り決めた(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』284−6頁)。
1641年1月、フランス・カタルーニャ連合軍は、バルセロナ郊外でオリバーレス派遣のスペイン軍と衝突し、これを撃破した。一方、スペインのポルトガル征討も「はかばかしい成果は挙げられなかった」。また、オリバーレスは、「イギリスとの同盟を狙って、チャールズ1世には長い間打診してきた」が、「イギリスでもスコットランド反乱問題を抱えているので、スペイン側に参戦する」ことは困難であった(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』289−292頁)。
スペイン敗勢 1642年12月リシュリューが死去し、1643年にはルイ13世が死去した(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』304−5頁)。一方、オリバーレスは、1642年12月フェリペ4世のカタルーニャ親征に失敗してマドリッドに戻り、「年明け早々にもポルトガル進攻を開始する」事を主張したが、国王に反対され、解任された(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』313−6頁)。
1645年、オリバーレスは退隠先のトロ(カスティーリャ北部)で死去し、「一般に安堵の溜息をもって迎えられた」(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』321−2頁)。後任の首席大臣ルイス・デ・アロは「凡庸な政治家で、波風を立てないことを旨」とし、「西仏戦争も、惰性によりそのまま継続して、徐々に敗色が濃厚となる」。
「ウエストファリア条約が発効しても、西仏戦争は依然として続」き、「戦局は一進一退であったが、大勢は、スペインに徐々に不利となっていった」。1648−1653年フロンドの乱(貴族・農民らの反王政闘争)は「スペインにとっては、大勢を逆転せしめる最後のチャンス」だったが、1654年アラスの会戦、1658年レ・デューヌ会戦でスペイン軍は敗北し、1659年ピレネー条約で西仏戦争は「法的に終結」した(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』331−2頁)。「三十年戦争の終結を契機として、スペインは、国際社会における覇権を決定的に失」い、代ってフランスが「主役」に登場した(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』339頁)。
「三十年戦争とその一環としての西仏戦争を契機として、スペインの国運は衰退」し、「フェリペ三世の時代は、明らかに安逸にながれて無気力で無方針の時代」となり、フェリペ4世の時代にはオリバーレスはその衰退を抑止できずに、衰退を促進させた(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』339頁)。
オリバーレスは、スペイン帝国の維持、神聖ローマ帝国への支援、スペイン本国における国民国家の確立という三課題は、「一つ一つが難問であるだけでなく」、「各々の理念がまったく異なり、時には矛盾」するから、「その全てを並立させるのは容易なことではな」かった。それに対して、リシュリューのフランスは、「フランスの国民国家の確立に専心すればよ」く、「オリバーレスの課題と比べれば、はるかに実現可能性が高かった」。17世紀中葉以降の「スペインの長期的な凋落傾向」は「異常な現象」である(色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』340−1頁)。
敗戦 フェリペ4世のもとで、@「カスティーリャは宿敵フランス人に敗北し、屈辱にまみれ」、A「ヨーロッパにおいて保持していた政治的覇権の最後の痕跡(オランダか)を失ってしまい、自国の最も価値のある海外領土のいくつかが、異端のイギリス人やオランダ人の手に落ちるのを手をこまねいて見てい」て、B「通貨は混乱を極め、産業は破壊され、住民の意気は阻喪し、その数は減少し」、C「カスティーリャは、経済的にも政治的にも死につつあった」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』409頁)。「1680年代に、カスティーリャの経済が麻痺したことに伴って、その文化的・学問的な活動も麻痺」した(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』416頁)。
小 括
こうして、カスティーリャは、「絶頂に辿りつき、そして奈落の底に沈んだ国」、「あらゆることをなしとげ、そして、あらゆるものを失った国」、「世界を征服したにもかかわらず、最後には敗れ去ってしまった国」となり、「16世紀のスペインの業績は本質的にカスティーリャの成し遂げた壮事であった」が、「17世紀のスペインの惨状も同様にカスティーリャが自ら招いたこと」(J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』438頁)であった。そして、黄金時代が過ぎ去った18世紀以降、「スペインはヨーロッパへの不信とプロテスタンティズムへの警戒心からヨーロッパに背を向け、自分の内に閉じこもってしまった」(林屋永吉ら『スペイン黄金時代』85頁)。「19世紀半ばのロマン派のスペイン人たち」は、「遠い昔の偉業のピーク」、「黄金時代」を「理想化」して、「かつては世界最大勢力であった自分たちのくにが何ゆえにその偉大さを失うことになったのか」について説明を求めた(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』61頁)。
スペイン研究では、成功より失敗に「より多くの時間」を割いてきて、@ジェームズ・ケージーは、「スペインの経済は実は発展しそこなっており、『失敗した移行』の事例」とし、Aジェームズ・トムソンは、「複合的な現実の異なる諸側面」の分析の困難を指摘して、「外部の諸要因へのスペインの『従属』というラインに沿って長年にわたる弱体を説明する方が適当である」と主張した(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』62頁)。
多くのスペイン人は、愛国心から「スペイン帝国は、1898年にアメリカ合衆国がその最後の海外領土であるキューバ、プエルトリコ、フィリピンを掌握した時に終焉した」という見方をしがちだが、実際には、「フィリピンでは、スペイン人はその7000に及ぶ島々のほんの僅かな一部を支配下」にしたに過ぎず、「南アメリカ本土でも、スペイン人が掌握したのは同じくわずかな土地であ」り、権力の裏づけはなく、海外領土で帝国の実態を与えることはなかった。実際、「経済に関しては、17世紀には早くも新世界の経済の大部分はすでに非スペイン人の支配下にあ」り、フィリピン植民地が「400年にわたって存続したのは帝国の幻想に過ぎなかった」(ヘンリー・ケイメン『スペインの黄金時代』55頁)のである。
こうしたスペイン脆弱さが、オランダ躍進を可能にする一因となったのである。
二 覇権国オランダの脆弱性
前述の通り、1530−60年代、ネーデルラントはスペインが特別課税を課した事に対して、反乱を起こした。以後、ネーデルラントは、70年以上にわたってスペインと争い続けつつ、スペインの対フランス、対イギリス政策の間隙に取り入って対スペイン貿易で儲けたりしつつ、1648年ウェストファリア条約で事実上の独立を果たした。しかし、この間、ネ−デルラントは経済的に著しく躍進する。
1 地中海貿易の衰退
毛織物工業 16世紀前半、「アジアからの香辛料が、地中海を経てヴェネツィアに輸送され」、「ヴェネツィアはこの貿易によって栄えた」が、ポルトガルが「新航路である喜望峰を通るインド洋ルートの発見により一時的に」優位に立った。だが、まだ輸送費で地中海経由航路より高く「地中海ルートを使うヴェネツィアが復活」する(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』講談社、2009年、30頁)。
16世紀に、「地中海諸国、特にイタリアが衰退し、イギリス・オランダなどの北大西洋諸国が勃興し」、「アントウェルペンが占めていた地位を、アムステルダムが担うようになった」のである。16世紀後半、「ヴェネツィアに代表されるイタリア経済は衰微し始め」、「ヨーロッパ経済の中心地」はブリュージュ、アントウェルペン、次いでアムステルダムへと推移したのである。R.T.ラップは、「北大西洋諸国が勃興し、地中海諸国が衰退したのは、前者が新市場である大西洋に近かったからではなく、旧市場である地中海を奪い取っていった」からであり、「アムステルダムやロンドンの黄金時代は、大西洋経済の開発ではなく、地中海市場を侵略したため」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』29−31頁)だとする。
そして、毛織物工業後発国のイギリスは、毛織物工業先進国のヴェネツィアを追い越すために、「より安価な毛織物を販売する必要があり、そのために品質を落とし」、「ヴェネツィアの商標を真似し、ヴェネツィア製毛織物と比べると粗悪な毛織物を売り、ヴェネツィア市場を脅かした」が、「ヴェネツィアの主眼は、品質維持におかれていた」。この結果、「イギリスやオランダは新しいタイプの比較的安価な毛織物を地中海で販売することで、イタリアの市場を侵食」した(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』31−2頁)。
イタリアの没落 16−7世紀の価格革命と、ヨーロッパ全土の人口増加(1500年8100万人が1600年1億400万人と22%増加)による食料需要増加によって、「農産物価格が工業製品の価格以上のスピードで上昇した」。地中海地方は、「元来食料の自給自足が可能であったが、16世紀末にはそれが不可能にな」り、さらには「オスマン帝国でも食料は自給自足できなくなり、輸入が増えて」、「北大西洋諸国と比べると、地中海諸国のほうが深刻な食糧不足に陥っていた」とする。1570年頃からオランダ船が自由港リヴォルノを拠点に地中海地方で活躍し始め、リヴォルノで「北欧小麦の輸入量が急増」した。グラマンは、「16世紀後半、地中海地方は、必需品のある部分について、ますます外部に依存するようにな」り、「西地中海の穀物情況は悪化し」、「飢饉が地中海諸都市を襲った」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』37−9 頁)とする。
この人口増大は森林資源を枯渇させ、海運業発展は「船舶用資材の不足ー海運業の危機」をもたらし、「ヴェネツィアの後背地で森林資源が枯渇すると、ヴェネツィアの造船業主には、近隣地域に船舶資材用として用いるに十分な森林資源はなかった」。17世紀末、「ヴェネツィア港を航行する船舶数は増大した」が、「造船業は回復」せず、「造船のための資材をみつけることがますます困難になり、ヴェネツィアにおける船舶建造の費用は4倍になったが、船乗りの賃金と物価の上昇率は二倍になったにすぎ」ず、ここに「ヴェネツィアは、造船業・海運業において、危機的情況に立たされ」た。こうして「イタリアの造船コストが高くな」り、「輸送費もまた、上昇し」、さらに「毛織物製造に必要な燃料源である雑木も不足」して、「毛織物製造コストは上昇した」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』41−2頁)のである。
16世紀後半以降に「食料危機」と「森林資源の枯渇」という「二つの経済危機」があり、イタリアは「食糧不足、森林資源の枯渇」という「二つの危機」に対処できなかったが、オランダなど「北大西洋諸国にはそれができた」のである(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』44−5頁)。
2 バルト海貿易の発展
オランダは、「その『母なる貿易』であるバルト海貿易を続けるためにも、穀物、木材を輸入する見返りとして、香料、塩、砂糖が必要であ」り、その香料、塩、砂糖をスペイン、ポルトガルを経由せずに直接に入手できるかどうかは、「オランダ経済の死活の問題であった」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』138頁)。
穀物貿易 ポーランドは「土壌の生産性は低」くかったが「ヨーロッパ随一の穀倉地帯」であり、1550−1660年代「ポーランドの穀物は、西欧の人々が生存していくためには欠かせなかった」が、17世紀後半ー18世紀にかけ、「西欧と南欧の食糧事情は急速に変化し、バルト海地方の穀物への需要は減少した」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』46頁)。
オランダが、この「『穀物の時代』のバルト海貿易を支配」だしたことが、「オランダの台頭とイタリアの相対的地盤低下」をもたらした。「ヨーロッパ経済の中心」が、「地中海から大西洋」へと直接移動したのではなく、「地中海からバルト海(オランダが中心)を経て、大西洋(イギリスが中心)へと移動」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』46−7頁)した。
1550年代に「アムステルダムがバルト海地方から穀物を大量に輸入」して、16世紀後半から17世紀前半、アムステルダムは、「他を圧する」穀物の集散地であった(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』48頁)。1560年当時の南部ネーデルランドは「失業や貧困」などの「経済的危機が吹き荒れ」、「宗教的情熱を苛立たせていた(モーリス・ブロール『オランダ史』39頁)。1566年、フランドル、エノー、アンヴェルス、北部諸州では「あらゆる種類の混乱のうちに教会が略奪にさらされ」、「武器をとったカルヴァン派の領主たちは、こうしてこの非常時のさなかに何の役にも立たないでいた貴族階級全体を危険に巻き込」み、「武器をとって聖画像破壊を応援した貴族は、貴族全体に対するスペイン王の怒りを招い」て、貴族同盟を解体し、「立場の難しくなったオラニエ公ウィレムはかげに身をひいた」(モーリス・ブロール『オランダ史』39−41頁)。
東インド貿易 「近世オランダ経済のバックボーン」については、@「東インド貿易」が重要とする一般的見解、A「バルト海貿易が重要」とする見解(ウォーラーステイン、玉木氏)がある。玉木氏は、「17世紀においては、オランダ東インド会社の貿易が本国経済に強烈なインパクトを及ぼすには、アジアは遠すぎた」から、「17世紀のヨーロッパの主要な取引相手地域はヨーロッパ内部にあ」り、「オランダの場合、バルト海貿易にあった」とする。16世紀後半からヨーロッパ全体で人口増のために食糧が不足したから、オランダにとって、「ヨーロッパ最大の穀倉地帯」、特にポーランド穀物が重要になったとする。オランダはアムステルダムに「巨大な穀物庫」を建設し、「その穀物の輸送」を一手に握って「穀物の輸送料により巨額の利益」を確保した。オランダにとって、穀物貿易は「母なる貿易」であった(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』60−2頁)。だが、東インド貿易は、航海リスクが伴うが高利益をもたらす「父なる貿易」であったのである。
3 スペインとの軋轢
ネーデルラントでの宗教的軋轢 ネーデルラントでは、「民主的な教義(市民権、政治的平等、個人財産権廃止など)」が「幅広い聴衆」に支持され、こういう風潮のもとで「カルヴァン主義がそこで急速に広がり、間もなくルター教を凌駕」する。カソリック教徒の神聖ローマ皇帝カール5世は、この宗教対策に疲弊して、1555年にネーデルラントの統治権、1556年スペインの統治権を息子のフェリペ二世に与えた。寄せ集めのネーデルラントはまだ独立行動をすることはできずに、今度は「政治上の自由や自治」について、「スペイン的な国王」と対峙することになる(モーリス・ブロール『オランダ史』33−5頁)。以後、ネーデルラントはスペインとの軋轢に直面する。
スペイン国王フェリペ2世は、1559年に「ネーデルランドをメヘレン、カンブレ、ユトレヒトの各地に設けた三つの大司教座に従属した18の司教区に分け」、メヘレンの大司教座が「グランヴェル(フランスの聖職者)に与えられ」、プロテスタントを弾圧した(モーリス・ブロール『オランダ史』35−7頁)。
一方、プロテスタントのオラニエ公ナッサウのウィレム、エグモント、ホールネの三人の大貴族は、「何事につけ、以後外国人の仕事の先頭に立ってネーデルランドの運命をスペインの利益を委ねていく」ことを目の当たりにして、これを懸念し、「反対運動の先頭に立っ」た。彼らは「領主同盟を結び、グランヴェル(枢機卿)の傍らに伺候することを拒否していた」。大貴族の反抗運動に「他の領主」や同志も加わって、二千人の「貴族と国民」は、執政マルガレータに「宗教裁判所の廃止と全国議会の召集」を請願した。これは「カルヴァン主義に忠実ではあるが気の弱い多くの平民」を励まし、「カルヴァン主義の目覚しい拡大の始まり」となった(モーリス・ブロール『オランダ史』37ー8頁)。
スペイン・アルバ公の専制 最強最大の統治者が存在せず、宗主国も最強最大というわけでもなく、ネーデルラント戦国時代の中で、スペインもネーデルラント有力州もネーデルラントを単独統治できぬまま、カルヴァン派とカソリックとの軋轢に悩みつづける。フェリペ二世は、「ネーデルランド(カルヴァン派)を制圧するために・・鉄の男アルバ老公爵を選」び、「ロンバルディアから一万の兵を引き連れてやってき」て、エグモント伯爵、ホールネ伯爵、ブーレン伯爵(オラニエ公子息)の三大貴族を捕縛し、自分の面子を潰した執政マルガレータを辞任させ、アルバ公(スペイン公爵)を代わりに立てた(モーリス・ブロール『オランダ史』41頁)。
アルバ公は、「血の法廷」と称される「騒乱評議会」を設置し、数百人を死刑にし、数十万人の財産を没収し、民衆を「恐怖のために沈黙」させた。しかし、脆弱ではあったが、外国に移住して抵抗組織をつくっていた人々が反撃に出てくる。アルバ公が、「あらゆる販売」に10%課税をしようとすると、@追放船乗りで海賊になった連中がオラニエ公と連絡を取り合い、Aオラニエ公は、海賊の攻撃、フランスユグノー派軍隊の攻撃などを計画した(モーリス・ブロール『オランダ史』41−3頁)。
オランダ独立戦争 フランスのナッサウから出動したユグノー派軍隊がモンス(ブリュッセル郊外)の占領に成功すると、オラニエ公は「各州の多くの都市」支配を委任された。1572年、「ホーラント州の州議会」がオラニエ公を「フェリペ二世を代表する知事」と承認し、アルバ公から「国を解放する任」をもつとされた。アルバ公は、メヘレン、ズトフェン、ナールデン、ハーレムなど、「多くの地を回復」したが、スペイン軍は海賊(「海の乞食」)に「徹底的な敗北を喫して」、フェリペ2世は「アルバ公を召還」した(モーリス・ブロール『オランダ史』43−6頁)。
1579年「北部ネーデルランドの大部分の新教徒」、「フランドルやブラバントの新教徒たち」の諸都市は、ユトレヒト同盟を結成した。そこでは、「ホーラント、ゼーラント両州はその宗教上の体制を自ら律すること」、「他の地域はこの点については『ガンの和約』(1576年、オランダ諸州がスペイン軍のネーデルラントからの全面撤退などを誓約)の規定に従うべきこと」が協定された。オラニエのウィレムは、「相変わらず17の州を結集することを望」み、当初このユトレヒト同盟を歓迎しなかった。スペインのフェリペ2世は、「オラニエ公の首に賞金をかけ」(モーリス・ブロール『オランダ史』46頁)た。ここに、1580年以降の80年戦争(オランダ独立戦争)が始まり、この遂行戦争のために、「オランダ人は、一人当たりで・・ヨーロッパ最大の税負担に耐えなければなら」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』77頁)なかった。
1581年、北部7州は「ネーデルラント連邦共和国」の独立を宣言し、オラニエ公ウィレムがオランダ総督の初代に就任した。しかし、1584年7月、オラニエ公はデルフトで殺害され、ユトレヒト同盟諸州に衝撃を与えた。スペインのパルマ公は、ブリュッセル、メヘレンを奪取し、翌年「ネーデルランドにおける最も富裕な都市」アンヴェルスを陥落させ、「南部全体がスペイン軍に奪回され」た(モーリス・ブロール『オランダ史』47−8頁)。一方、抵抗派は、「暗殺者スペイン王に対する憎しみ」に燃えて、大河、海の補給路を押さえて、スペイン派諸州を閉鎖させ、「生存のための全面的な戦いのうちで、対外貿易を発展させ」、「貿易は世界第一のものになろうとしていた」。特に「アンヴェルス歓楽の恩恵」で、「アムステルダム、ロッテルダム・・フリッシンゲン」は貿易港として一層発展した(モーリス・ブロール『オランダ史』48頁)。
ネーデルラント連邦共和国の勝利 ナッサウのマウリッツ(ウィレム1世の次男)は「次々と勝利を収め」、ズトフェン、デーヴェンテル、ナイメーヘンが取り戻され、「すでに七つの州からなる連邦共和国はほぼこんにちのオランダ王国に相応する密接な集団を構成していた」。ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト(ホーラント州法律顧問)は、1596年に「アンリ4世とエリザベスに連邦共和国を承認させ」、ついで両君主に「スペインに対抗した同盟」(モーリス・ブロール『オランダ史』49−50頁)を結ばせた。
海上では「ホーラント人が勝利を重ね、スペインやポルトガルの植民地のなかに自分たちの帝国を裁断し始め」、1602年にはオルデンバルネフェルトは合同東インド会社を設置した。1609年、フランスとスペインは12年間の休戦を調印し、「そこで連邦共和国を独立国と認めた」(モーリス・ブロール『オランダ史』50頁)。
ネーデルラントでは、「スペインの手に残された部分」はカルヴァン派が逃亡して「空虚」となり、「この国外流出は、逆に連邦共和国の偉大さや富に大きく寄与」した(モーリス・ブロール『オランダ史』51頁)。
終戦と独立 1621年、「オラニエ家が望んでいた戦争」が再発し、1618年開始の30年戦争に「結びついてい」き、ナッサウのマウリッツは「活力を失っていく」のである。1625年、マウリッツの弟ヘンドリックが継承すると、「戦争が活発になった」。この戦争によって、「スヘルトへーンボス
、ヴェーゼルやマース川沿岸の多くの地が連邦共和国の手に落ちた」。1634年、連邦共和国は、「皇帝軍の勝利によって・・共和国は合流した皇帝軍とスペイン軍の攻撃にさらされ」、ここに「フランスと同盟を結び、フランスはドイツ帝国とスペインに対し同時に戦端を開いた」(モーリス・ブロール『オランダ史』68−9頁)。オランダは、いくつかのスペイン海戦(1628年、1631年、1636年、1639年)で勝利し、特に「最後の戦闘は、スペイン軍の最後の大規模な試みの潰滅となり、オランダを一級の強力な海軍国として是認させ」(モーリス・ブロール『オランダ史』70頁)た。
もう一つの対抗国イギリスとは、通商では競争し、植民地では「おおっぴらな敵対関係」になり、チャールズ1世が「主権をとり戻しつつあった水域でのオランダの勝利に妬みを抱」きつつも、権力失墜を恐れて「それ以上」の対立を避けていた。チャールズ1世長女のメアリーは「ヘンドリックの息子ウィレ
ム」と結婚し、「スチュアート家とオラニエ家とを縁戚」(モーリス・ブロール『オランダ史』70頁)にした。
1640年、ポルトガルがスペインから分離し、スペインはますます弱体化した。しかし、フランスが強大化してくると、「オランダは、フランスが危険な隣人となるのを恐れ始めていたし、南部ネーデルランドにとっては、急速な発展を遂げているフランスより、弱体化したスペインのほうがまし」とした(モーリス・ブロール『オランダ史』70頁)。
1646年頃には、「税金として徴収された2400万ギルダーの90%近くが、直接戦争に関係する事柄に費やされ」た。17−8世紀では、「オランダの一人当たりの税負担は、イングランドとフランス以上のスピードで増え」、「富裕層ではなくむしろ中産層が、より多くの税負担を負わされていた」。こうした重税にも関わらず「オランダが繁栄」したのは、「貿易にかかる税金が少なかったから」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』77頁)である。1648年ミュンスター条約で、「オランダ人のいう80年戦争に終止符をう」ち、「最近の征服地も併せた共和国の独立を確認」し、「東西インド諸島では、スペインはいかなる拡張も禁じられ」た(モーリス・ブロール『オランダ史』70−1頁)。しかし、この「フランスをスペインとの争いに委ねる」条約は、「新しいオラニエ公、ウィレム二世の承認できるものではなかった」(モーリス・ブロール『オランダ史』71頁)。
4 ネーデルラント躍進
@ バルト海海運
中継貿易の中心 「スペインとの戦争が陸に海に続いている中で、オランダの経済は大躍進をとげた」。ジョナサン・イスラエル(Jonathan Israel、イギリス人のオランダ史家)は、『オランダ共和国とスペイン世界』(1983年)、『世界貿易におけるオランダの優越』(1989年)、『倉庫帝国』(1990年)などで、「ネーデルラント諸都市の経済発展の最大の特徴」として「倉庫、中継地」、「商店の集まっている所、百貨店、商業の中心地」としての役割を強調している(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』144頁)。
オランダは、@バルティック海が、「ヨーロッパの南部がオットマン・トルコに抑えられて以来、中欧、東欧、ロシア全域に及ぶ極めて大きな市場と生産地を背後に持っていた大通商貿易地域」となると、A「ライン河の河口に位置し、バルティック海、大西洋に面しているネ−デルラントが・・トルコの進出による地中海貿易の衰退とともに、ヨーロッパの中継貿易の中心となっ」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』145頁)て、「ヨーロッパの倉庫」となったのである。
特にバルト海海運業は、穀物貿易と穀物運送とで着実な利益をネーデルラントにもたらした。
バルト海海運業 1497−1660年エーアソン海峡(バルト海に出入りに通過する海峡)を航行した40万隻の船舶の59%が「オランダの北部七州」から出港していた。オランダは、@「積載量は多く、しかも船体は軽」くて「輸送コストが桁外れに低」い「フライト船と呼ばれる非武装商業船」を使用し、A「16世紀後半から17世紀前半にかけての西欧は、貿易面から見れば・・『ダンツィヒ(現在のポーランド・グダニスク)ーアムステルダム枢軸』を中心に動いていた」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』65頁)。
17世紀中頃まで「「バルト海貿易における『穀物の時代』」が続くが、すでに1600年頃に「穀物価格がピークに達し」、「それ以降、ポーランド経済は徐々に貧しくなっていった」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』65頁)。
バルト海収支 玉木氏は、「おそらく、オランダの貿易収支(差額)は赤字であったろう」が、「輸送料と貿易商人の利益額(商品を輸出入するためにポーランド側が貿易商人に支払わねばならない金額)の合計の方がポーランド利益源を上回っているから、輸送の多くを担っていたオランダが、輸送料として、ポーランドから巨額の収入を手にしていた」と考えられるとする(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』65頁)。
16世紀後半、ポーランドは、「穀物が上昇していた」ので、「輸送料として多くの金額をオランダに支払ってもよいだけの貿易黒字があった」が、17世紀には「穀物不足が西欧全体で解消しはじめ」、「ポーランドの穀物は16世紀後半ほどの価値をもたなくな」り、しかも「ポーランドでは、輸入ほどには輸出は増加せず、貿易収支は悪化し」たにも拘らず、「オランダなしでは穀物を輸出することは不可能だったので、ポーランドはオランダへ巨額の輸送料を支払わなければならなかった」ために、「ポーランドは西欧、主としてオランダに従属する傾向があった」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』66−7頁)。だが、これは、オランダのバルト海貿易が、ポーランドの穀物生産力と輸送料支払い能力に依存するという非常に「不安定」なものだったことを示している。
武器貿易・製造の発展 1580年以降の80年戦争(オランダ独立戦争)の開始時、「オランダにおける武器産業は経済全体のごく僅かな役割しか果たしていなかった」が、スウェーデンの銅と鉄を輸入して、、終戦時の1648年には「無視しえないほど巨大なもの」となり、最大の武器消費者はオランダ東インド会社(VOC)であった。1630年、「オランダにとってスウェーデン産の銅は、大砲の製造に欠かせないものとなり、鉄製銃器は、イングランドではなくスウェーデンから輸入されるようになった」。フランスのリシュリューは、銅・硝石・火薬・弾丸・マスケット銃・大砲をアムステルダムで購入」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』73−4頁)した。
ルイ・ド・イェール(リエージュ出身、一時アムステルダム居住、スウェーデン居住、アムステルダムに武器倉庫所有)はオランダのトリップ家をパートナーとして、「1610年代から、「銅・鉄、さらには鉄製銃器の販売を独占」し、1630年代には「毎年1000挺以上の鉄製銃器を販売」した(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』72頁)。
このような「オランダースウェーデン複合体は武器の製造と貿易を行ない、それがヨーロッパ全土にわたる影響をも」ち、1632年に「ド・イェールとトリップ家のパートナーシップ関係」が終了したが、「トリップ家の親族によるパートナーシップ経営で武器売買がなされ」、相も変わらず「アムステルダムはヨーロッパの武器売買の中心であり、そのために必要な鉱物資源をスウェーデンから輸入していた」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』74頁)。
17世紀、オランダは、「人口は少なかったにもかかわらず」「ヨーロッパの強国として知られ」、「オランダ艦隊は十分に強力」であった。そして、オランダは卓越した軍事情報を持ち、「武器貿易に関与した商人がもつ情報こそが、戦争の勝利に必要なストラテジーの形成に欠かせないもの」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』75頁)であった。
A アジア貿易の発展
オランダ貿易の発展 1590−98年、「スペイン帝国との貿易のお陰」で「七つの海に覇を唱えるようになるオランダの海運、貿易が発展し出した」。確かに、ネーデルラントは、「ハンザ同盟を打ち破って以来・・北海、バルテイック貿易の主導権を握っていた」が、「それは主に穀物、木材等のいわゆる大量輸送(バルキー・トレイド)商品であり、香料、銀などの金目になる商品は扱っていなかった」。特に独立戦争後は、ネーデルラントは、「スペインの経済封鎖を蒙って他国船旗の下に細々と貿易をしていたが、経済は貧窮してい」て、「エリザベスに派兵を頼んだ時も現金で払えず、海岸の諸都市を質に入れたことなどは、後年の金満大国オランダでは考えられないことである」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』136頁)。
1590年、フィリップ3世は、@「無敵艦隊の敗北後、海上の主敵はイギリスとなり、また陸上での主要目標はフランスとなり」、オランダの如きは「二次的な考慮」しかせず、A「無敵艦隊の再建のために木材、タール、ピッチなどの造船資材を大量に必要とし、オランダ船の中継貿易を必要とした」ので、「オランダ禁輸を解除」した。この禁輸解除で、オランダは、1590−98年の8年間で、「海運と貿易から資本と技術を蓄積して、その次の時代の飛躍に備え」たのである(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』136頁)。
アジアでの西蘭戦争 スペイン、ポルトガルは、オランダ対抗措置として、「オランダ船の捕捉撃滅」、「オランダと取引した植民地や土侯国」の処罰を行なった。1601年、スペイン・ポルトガルは「オランダ人と通商した罪に対する見せしめの罰として、まずジャワ島のバンタム市を襲撃、破壊しようとした」が、たまたま入港していたオランダ商船5隻(ヘルマン・ヴォルフェルト船長)が、巨大なポルトガル艦隊を攻撃し、数隻を沈め、2隻を捕獲し、ポルトガル艦隊をジャワから追い出した。ヘルマンは、「解放者として歓迎されてバンタムに入港し、ジャワの入植地の基礎を築いた上に、香料群島にも赴いて、バンダの住民との間に通商航海の条約を結んだ」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』139−140頁)。
ヘルマンは、「スマトラのアチンの王とも条約を結び、アチンの使節をヨーロッパに招いて」、「躍進するオランダの産業、経済の実情」を見学させた。同じ頃、ファン・ヘームスケルク(オランダの大航海者)は、「マレイ半島のジョホール王と仲良くな」り、王が「真珠、香料、綿などを満載したポルトガルの大型武装商船」が通峡する事を知らせると、ヘームスケルクは2隻の小型船でこの巨船を捕獲し、百万フローリンの戦利品を得た。こうして、オランダ船船長は、「東アジアの各地を巡航して、ジャワ、スマトラ、香料群島、マレー半島だけでなく、セイロン、マカオの当局とも友好関係を結んだ」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』141頁)。
1600年、オランダの「マヒューとデ・コルデスの艦隊の一隻」リーフデ号が、「マジェラン海峡を通る南西のアジア航路を試」み、失敗して、日本に漂着した。「徳川家康の知遇を受けた三浦按針(英国人)」もリーフデ号船員だった。1609年には、日本との本格的通商が始まった(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』141頁)。
オランダ艦隊の活躍 1607年、オランダ海軍司令官ヘームスケルクは、「30隻の艦隊を率いてジブラルタル沖でスペイン艦隊の主力を捕捉し、敵船21隻を撃沈、拿捕」した。ついで、彼は、「地中海の制海権を奪」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』142頁)った。
1609年、こうした「七つの海におけるオランダ海軍の跳梁ぶりは、スペインをして対オランダ戦争の先行きの見通しを失わせ、和平を求めさせる大きな動機とな」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』142頁)り、スペインはオランダと休戦した。以後、17世紀末までの100年間、ポルトガルを併せたスペイン帝国が、「世界中で圧倒的に豊かな物産と貴金属の源を支配してい」て、オランダはそのスペインとの貿易を許されて、「オランダの初期の資本が蓄積された」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』136頁)。前述の通り、オランダ東インド会社は、たちまち英国の東インド会社を凌駕した。
アジア経済の展開 1585年、ネ−デルラントの経済中心地は、アントワープからアムステルダムに移った(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』145頁)。
「独立戦争前のオランダは、漁業と海運中心で、工業はたいしたことはなかったが、ヨーロッパ中の産業と技術がオランダに流入し、オランダ人は精力的にそれを吸収、改良し、政府もそれを保護、奨励したので、たちまち急成長した」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』146頁)。
オランダは、@「ガラスと砂糖精製』技術ではヴェネツィアを凌駕し、Aライデン、ハーレムでは繊維産業が発展し、B農民は穀物より付加価値の高い酪農を発展させ、C「オランダの基幹産業である漁業の保護にも意が用いられ、厳しい漁期を設け、また成魚の捕獲のみを許す制度も始められ」、D造船、海運業も進展した(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』146−7頁)。
1634年オランダ船舶3万4850隻のうち、@内水航行に2万隻、バルテイック貿易に6千隻、北海貿易に2500隻、ライン・マース河航行に1千隻、A英仏等との貿易に1500隻、Bスペイン・アフリカ北岸・地中海に800隻、アフリカ・ブラジル・東西インドに300隻、ロシア・グリーランドに250隻など、「ヨーロッパの海運を一手に引き受けた大海運帝国」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』147頁)であった。
アジア貿易の評価 これに対して、ジョナサン・イズラエルは、「バルト海貿易のような『かさばる商品』の貿易ではなく、アジアなどとの『高価な商品』の取引こそが、オランダ経済にとって重要だった」と主張した。しかし、オランダ史家ヴァイオレット・バーバーは、「1666年の段階でアムステルダム取引所の資金の四分三が、バルと海貿易に投資されていた」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』63−4頁)とする。だが、オランダ東インド会社が設置された1602年頃にはバルト貿易が減収減益していたのではないか。
玉木氏は、「オランダが輸入する穀物は、オランダ国内の消費ではなく、基本的には再輸出を目指したもの」であり、16世紀後半から17世紀にかけてポーランドからの穀物をヨーロッパ各地に再輸出し、しかもその輸送を担い、巨額の輸送料を得ていた事実」、中継貿易の海運業で「巨額の輸送料」を得ていたこことに「目を向けるべき」とし、バルト海貿易によるオランダ利益率は、34%(1610−20年)、33%(1684−8年)、42%(1724−8年)とするが(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』64頁)、16世紀後半ー17世紀と、17世紀という時期に応じてオランダの主導経済部門が異なっていたことにこそ注目すべきである。16世紀後半ー17世紀という短期間を「近世ヨーロッパ」ということはできないであろう。しかも、こうした海運業は、不安定であるばかりでなく、発展性は希薄であり、増収増益の可能性は低かったであろう。むしろ、オランダ海運業発展の契機はヨーロッパ外世界から与えられるのである。
ヨーロッパ外世界への進出 ジョナサン・イスラエル著『倉庫帝国』によれば、「1599−1608年にかけてのオランダのヨーロッパ外世界への進出は、まさに驚嘆すべきもの」があり、@「1588年以前は年間わずか二、三隻の船が、それもいちばん遠くてもアフリカ西海岸までの冒険を試みただけだった」が、A1589年からの10年間で、「毎年20隻、計2百隻のオランダ船がギニア海岸を訪れ」、B1599年にはオランダ船は「塩を求めてはじめて出航」し、以後6年間に768隻が「ベネズエラ、ニューグラナダに通商に行」き、C1598−1601年の4年間で13船団、60余隻が東インドに「香料と胡椒」を求めて赴いた(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』138頁)。
ジョナサンが、Cで1601年までとしたのは、「1602年にオランダ東インド会社が設立され、オランダの東アジア貿易が本格化する前の段階で、すでにこれだけの船が行ったことを強調する」ためであろう(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』138頁)。
黄金時代 オランダがヘゲモニーを握った時代(1625−75年)は「オランダ史上の最盛期」であり、オランダ史では「黄金時代」とよばれ、「国内交易・国際貿易において非常に繁栄し、工業は発達し、農業は栄え、初期的な金融制度が発達し、漁業の生産性は高」く、「これらはすべてほぼ同時代に起こり、人口増大、都市化の伸展、移入民をもたらす大きな革新によって維持された」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』50頁)。
オランダの経済力については、@「船舶数は、ヨーロッパ全体の半分から三分の二を占め」、A「ライデンでは毛織物産業が発達し」、B「穀物はバルト海地方から輸入されることが多かったものの、安定した輸入ができたので、他国と違い、ほとんど飢饉はな」く、C「国内では、より利益率の高い園芸作物に特化し」、D「さまざまな先進的金融制度が導入され」、E「ニシン漁の利益率はすこぶる高」く、F「17世紀の生活水準は、ヨーロッパでもっとも高かった」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』50頁)。オランダ共和国の一人当たり国民総生産は、「つねにヨーロッパ最高の地位を占め、その優位は17世紀のみならず、衰退期とされる18世紀を通じて維持された」(大西吉之「オランダと海」[金沢周作編『海のイギリス史』昭和堂、2013年、277頁])。
こうしたオランダの経済発展は、「スペインからの独立戦争(1568−1641年)」、つまりスペイン覇権の衰退の過程で成し遂げられ、イギリスよりも100年早く「戦争のための戦費調達とその返済方法」を生み出したのである。ただし、「イギリスの場合、イングランド銀行が戦時に国債を発行し、その返済を議会が保証するというファンディング・システムが形成された」のに対し、オランダでは、「ヨーロッパ経済の最先進国であ」り、17−8世紀、「ホラント州の勢力が強かったものの、七つの州がバラバラに行動する分裂国家」であり、「イギリスほどには中央集権化」せず、「各州が公債を発行するにとどまった」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』50頁)。
現在、イギリスでは「イギリス史における産業革命の意義は小さかったという見解が主流になってい」て、「イギリスにとって重要なのは『金融』であり、『イギリス経済』の本質は、近世から現代までほとんど変わらなかった」という傾向があるようだ。これを踏まえて、「オランダの『商業資本主義』とイギリスが生み出した『産業資本主義』という区分をする意味はなくなるだろう」とする研究者もいるが(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』53頁)、ここにはイギリス産業革命の世界史的意義の視点はない。
6 オランダの国家的特殊性
@ 分裂国家
分裂国家 通説では、「近世のオランダは、他のヨーロッパ諸国の多くとは異なり、近世においては中央集権化せず、18世紀末のフランスの占領時に突如として中央集権化した」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』75頁)というものである。国家間の対立・戦争に際して、この分裂性はマイナスの作用をしたのである。確かにアメリカの州も独立性を帯びてはいたが、選挙で選出された大統領の権限が強くて、ここに国家分裂性を牽制する集権性がしっかりと担保されていた。オランダの連邦議会、総督には、こうした集権的規制力はなかったのである。
神聖ローマ皇帝カール5世は、ブルゴーニュ侯爵家に代わって、「ネーデルランドのうち現在のベルギー領にあたる諸州と、ホーラント、ゼーラントの両
州を相続し」、以後は残りの州を征圧し、「全ネーデルラントはカール5世に属する」に至った。1548年、アフグスブルグの帝国議会で、17州(4公爵領[ブラバント、リンブルフ、ルクセンブルク、ヘルデルラント]、8伯爵領[フランドル、アルトワ、エノー、ナミュール、ホーラント、ゼーラント、ズトフェン、アンヴェルス]、5州[メヘレン、ユトレヒト、オーフェルアイセル、フリースラント、フローニンゲン])で「ブルゴーニュ圏を構成することが決定」された(モーリス・ブロール『オランダ史』30頁)。
オランダ共和国の国制の特徴とは、このように集権化の軸を欠いた「神聖ローマ帝国の末裔ともいえるほどの分裂状態」であり、オランダ7州(ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルデラント、オーフェルエイセル、フリースラント、フローニンゲン州)が「それぞれ主権を有していた」のである。ホラント州が「もっとも勢力が強かった」が、「他の諸州に対し強引に自分たちの主張を押し付けられるほど強くはなかった」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』76頁)。
オランダには「国王がおらず、ホラント州の総督(オラニエ家が通常この地位に就く)が指導権を発揮することが多かった」が、総督の力は弱く、各州が「現実にオランダの支配権を握っていた」のであった。「各州の代表からなる連邦議会」は「デン・ハーグで開催」され、「対外政策、戦争や和平の宣言のようなオランダ共和国全体に関する問題」を扱いはしたが、「権限は弱く」、総督同様に「植民地の事業には何の権力ももってはいなかった」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』76頁)のである。
17世紀初期の連邦共和国 オランダに関する限り、17世紀は「偉大な世紀」であった。
1588年、スペイン無敵艦隊の敗北によって、連邦共和国(正確には連邦諸国とはヘルデルラント、ホーラント、ゼーラント、ユトレヒト、フリースラント、オーフェルアイセル、フローニンゲン[1594年にようやく回復]など7州)は生まれた(モーリス・ブロール『オランダ史』52頁)。
各州統治は多様であり、@「どの州でも州議会に属していたが、議会の構成(貴族、都市代議員)は非常にまちまちであ」り、A都市は「一つの小国」であり、「都市の代議員は市から指示を受け、投票権を行使する前に問題を市に付託しなければならなかったほどに都市の重要性は大き」く、「都市の司政官は通常互いに縁戚関係にある最も富裕な家門から選ばれ」、B州議会は参事官(州法律顧問として州管理機構を管理)と総督(「州議会の主導権を握っていて、州国家の統領として法の執行に目を配り、特に都市の行政いて数多く役職者を任命」)を任命し、C連邦議会が連邦組織を基盤とし、「各州議会より選ばれた40人の代表からな」り、「連邦議会の上級の権限を行使する領主連邦議会が外国に対し共和国全体を代表し、戦争、講和、国防に関するすべての事項を決定した」(モーリス・ブロール『オランダ史』53−4頁)。
ホーラント州は、「その住民の数からばかりでなく、その富、国費に対する負担額、対外関係においても他の州とは桁違いに重要な州」であり、この州参事官が「連邦議会の討議において必然的に大きな影響力をもってい」て、ホラント州議会の法律顧問オルデンバルネフェルトが共和国宰相を務めた(モーリス・ブロール『オランダ史』55頁)。
オラニエ家の画策で、「同家の主代表」を五州知事に選定し、その従兄弟を二州(フリースラント、フローニンゲン)知事に選ぶことによって、「オラニエ公は全く自然に陸海軍の総司令官である『大』知事」となった。彼ら知事は「君主制への渇望」を抱き、1637年にはフレデリック・ヘンドリック(ウィレム1世の末子)は「殿下という称号」を使い始めた(モーリス・ブロール『オランダ史』56頁)。
17世紀、この連邦共和国には、ホーランドの大商人を中心に「共和派」という流れと、「カルヴァン主義と民主主義の最善の守護者」オラニエ公ウィレム1世の中央集権化を説く流れの二つがあった(モーリス・ブロール『オランダ史』56頁)。17世紀における連邦共和国の政治 12年間の休戦は、連邦共和国を「ヨーロッパにおけるその地位を強固」にしたが、「国家的危機の意識によって薄れていた種々の対立を際立たせる結果」を生んだ(モーリス・ブロール『オランダ史』67頁)。
「固苦しいカルヴァン主義、特に予定調和という極めてこみいった問題」に固執する一派(ホマルス派、議会多数派、ナッサウのマウリッツ)と、「広い見識をもった自由な市民階級」(アルミニウス派、宰相オルデンバルネフェルト)という、「この国を深く分裂させた新教の二つの傾向」が出現し、「議会は喧嘩を宥めようと試みたのち、『アルミニウス派』に加担し」、ホマルス派は「全国司教教区会議の召集を要求」(モーリス・ブロール『オランダ史』67−8頁)した。
ナッサウのマウリッツ(ウィレム1世の次男)は、「武力をもって介入し、急遽地方自治体の権限を変更したり、諫争派(アルミニウス派)のおもな中心地であったユトレヒトや、ホーラント州の多くの都市にあった地方自治体の駐屯部隊の解散とりかか」り、宰相オルデンバルネフェルトを逮捕し、死刑を宣告し、1619年斬首した。さらに、ホマルス派の全国司教教区会議は、諫争派(アルミニウス派)の「動機を弾劾」(モーリス・ブロール『オランダ史』68頁)した。
主権の錯綜、君主制の弊害回避 1685年に、全国議会は、「参事院の新たな議長にウィレムの息子の18歳だったナッサウのマウリッツを据えた」が、「その父親のフランス的政治を復活させたいと望んでいた彼らは、アンリ3世に主権を提供した」。しかし、これを「あまりに危険」とした人々は、イングランド女王のエリザベスの主権を求めたが、エリザベスはこれを断りつつも、「レスター伯爵に僅かな軍をつけて送って」きた。ネザーランド側はその駐屯費用の支弁のために、ブレーリ、フリッシンゲンの都市を「寄託」し、1616年までイングランドに差し押さえられた(モーリス・ブロール『オランダ史』48頁)。
レスターは「エリザベスの意に背い」て「オラニエのウィレムさえ持っていなかった権力とともに総督の称号を受諾」し、かつ「ホーランドの州議会」の寡頭政治に対抗して「カルヴァン派の過激派を集め」、スペインとの通商を禁止し、スペインへの「反目を煽った」。これは支持されず、1587年退かされた。以後、全国議会は、「君主を見出すに至らず」(モーリス・ブロール『オランダ史』52頁)、「外国人君主の経験を二度と繰り返さぬ」ことをきめ、「この時から、独立した一つの共和国が生まれた」のである。この時、スペインのフェリペ2世は、パルマ公爵を「イギリスに対抗する彼の大事業」と「アンリ4世との戦い」に協力させ、これが「共和国を救」い(モーリス・ブロール『オランダ史』49頁)、他方、スペインは無敵艦隊惨敗で消え去った。
ネ−デルラントも 分裂性の弱点を知って対処しようとしたのだが、国民的支持をえることもできず、君主制の弊害に直面しただけであった。
A 経済の先進性と限界
商品情報網の集積 「アムステルダムからの移民の移住先として重要」だったのは、「ロンドンとハンブルグ」であり、当時、ハンブルグは、「大西洋世界と良好な商業関係を保ち、フランスからアムステルダムにおよぶプロテスタント商人のネットワークの一翼を担」い、「オランダが交戦中に、アムステルダム商人が中立都市ハンブルグに移動し、商売を続けることもあった」のである。「1689年にオラニエ公ウィレム3世がイングランド国王になって以来、ロンドンとアムステルダムの金融関係が密になった」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』84頁)。一方、アムステルダムとスコットランドの関係は冷却化した。
オランダが、「中央政府の権力が弱く、分裂国家であったからこそ」、多様商人の交流拠点になったのである。「もし、オランダ政府の権力が強ければ、アムステルダムを経由した商人の移動は、はるかに制限された」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』87頁)のであるが、オランダ国家が脆弱だったので、多様商人の交流が実現されたのである。
こうした多様商人の交流の中で経済情報が交換された。既に1580年「商品の相場表」が発行され、1590年代から「オランダの有力商人達の集まるコーヒー・ハウスは世界一の取引所」になり、1611年に「商品取引、両替、保険を全部扱う総合的な取引所』が建設され、1612年には「正式に資格を認められたブローカーが300人」となった。1609年には、「中央銀行としてアムステルダム銀行が、バンク・オブ・イングランドより75年早く設立され」、フランス、ドイツ、イギリスより低い金利(2.5−4%)で資金を調達できた(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』148頁)。
オランダは、こうした「商業技術、商業ノウハウ」をヨーロッパに提供して、「ヨーロッパ全体で取引費用を低下させ」て、「オランダの経済・商業活動が、他地域の経済発展に貢献した」のである(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』87−9頁)。ただし、「いったんオランダが商業、金融の中心として独占的な地位を確保すると、物資の買占め、価格の操作などで独占利潤を上げることも可能にな」った(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』149頁)。
オランダ金融市場の限界 さらに、「オランダ東インド会社の株が譲渡可能だったため」、「アムステルダム資本市場が発展した」。つまり、「投資家に、流動性をあまり損なうことなく、投機による利益を獲得する可能性が提供されたので、金融市場が活発になり、それに伴い様々な信用供与の技術が開発された」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』79頁)。この信用が国家の戦費借金に援用されていく。
つまり、オランダでは、戦争遂行のため「多額の借金」をするため「『金融革命』と呼ばれるほどの金融制度の進展」が見られた。「オランダでは州ごとに公債を発行」され、このオランダ公債は、「都市の有力者にとどまらず、船長などの水夫、職人層にわたり、徒弟さえも公債を購入することは珍しくな」く、「女性が財産として公債を保有」した。「オランダが金融上の革命に成功した要因の一つは、このように早くから利子生活者(ランティエ層)が形成されており、借金をすることが容易であ」り、こうして、オランダは、「80年戦争の過程で、ホラント州を中心とする非中央集権的国家を作り上げ、また軍事費の増大に対処するために金融制度の改革をおこな」い、「ヨーロッパ各国、特にイギリスによって模倣された」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』77−8頁)。
しかし、1609年に創設されたアムステルダム銀行は、「イングランド銀行とは異なり、オランダが共和国だった時代には、中央銀行にはならなかった」。「イングランド銀行が国債を発行し、その返済を議会が保証」するという「イギリス公信用の発展」とは異なって、オランダでは長期債の信用脆弱で短期債中心となり、そこまで発展しなかった。「イングランドの財政革命は、イングランド銀行を通じて、長期債を発行することで生じた」が、「オランダ共和国では、財政革命は短期債が増大したことから生じ」(オランダ財政史家ヴァンチェ・フリッチー[玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』77−9頁])のである。
オランダ経済先進性の限界 玉木氏は、「オランダ人研究者が主張するほどにオランダの財政制度が近代的であるとは思われない」し、「オランダは早熟の経済ではあったが、近代的経済国家ではなかった」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』80頁)とする。
分裂国家の「共和国時代のオランダ」が「経済発展」できたのは、「17世紀においては、他の国々が戦争中だったということにも原因がある」。オランダでは「多様な経済制度が、他の国々に先駆けて発達」したので、「他国に比べて経済が早く発展」した。だが、18世紀に「イギリスをはじめとして国制が中央集権化する」と、「オランダは基本的には『商人の共和国』であり、国家が主導権を握り経済を発展させるということは、ほとんどな」く、「オランダの国制は時代遅れになっていった」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』80−2頁)。ここでも、オランダ分裂国家の国制の限界があったのである。
三 オランダの衰退
1 英蘭関係の悪化
@ 英蘭関係の緊密化
岡崎久彦氏は、「もともとアングロ、サクソン、ジュートの三部族は、現在のオランダからデンマークにかける地域に住んで」いて、「オランダ付近にいた部族でイギリスに渡ったのがイギリス人となり、大陸に残ったのがオランダ人」だから、「アングロ・サクソンとオランダ人はほとんど同文同種と言ってよ」く、「英語はオランダ北部のフリースラント地方の言葉とほとんど同じだった」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』19頁、山本紀久雄「オランダ牡蠣事情」[オイスターギャラリーRグループのHP])とする。しかも、「オランダ、イギリス両国は、・・旧教国スペインの脅威に対して、運命共同体として共同で立ち向かってきた」のであり、「その英国がオランダを攻撃するなどということは考えられないことであった」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』20頁)。
エリス・バーカー『オランダの興亡』では、@オランダ、イギリスは「ヨーロッパの代表的な新教国」であり、「両国はスペイン帝国の脅威から国家の自由を守るために、肩を並べて戦」い、 A「英国では1649年チャールズ一世が処刑され共和国が設立され、オランダでは1650年のクーデターで総督が廃され」、英蘭両国は革命政府によって統治されている共和国であり、ともにヨーロッパの君主国の敵意を警戒せねばならず、お互いに助け合わねばならなかった」。こうして、オランダ、イギリスは、「共通の利益と、共通の脅威と、共通の歴史と、同じような社会の発展と、同じような政治制度と、同じような政治的環境によって、お互いに結ばれていた」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』20頁)かであった。
A 英蘭関係の悪化
英蘭関係の悪化 英蘭(プロテスタント国)関係は、1648年ミュンスター条約で「80年に及んだオランダとスペイン(ローマ・カソリックの君主国)との戦争」が終わった途端に悪化し、「英国はオランダの経済力を脅威と感じるようにな」った。1649年共和制樹立が宣言され、「英国がオランダと同じ共和制」となると、イギリスのクロムウェルの議会は「オランダの富を剥奪しよう」と提案した(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』21頁)。
1652年から英蘭戦争が始まり、「1688年の名誉革命以後、英蘭両国がフランスを共通の脅威と考えるようになるまで続いた」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』21−2頁)。
フランスの介入 1635年、オランダはフランスと「仏蘭同盟」を結び、フランスは「オランダを援けるために軍隊と資金を提供」し、オランダは「フランスと共同でない限り、スペインと休戦または和平をしない」ことと約束した(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』174頁)。フランスは「むしろ英蘭抗争で双方が疲弊するのに満足して傍観しつつ、自らの介入の機会を待っていた」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』24頁)。
1672年、「フランスが宮廷外交で英国王チャールズ2世を籠絡して味方にしつつ、陸の大軍を率いてオランダを攻略しようとした時」、コルベールはルイ14世に、「オランダ処分案」を提出して、@オランダは「フランスの一部」となり、「貿易と産業を維持すべきではない」とし、A「オランダは全てのフランス産品を無税で輸入するよう強制されなければならないが、フランスはオランダの海運と貿易に対して、好きなだけの税を課するよう特権を留保すべきであ」り、B「オランダから対ヨーロッパ、対アフリカ、対アジア、対アメリカの全ての貿易を剥奪する詳細な計画も提出」した(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』24頁)。
2 オランダの分裂
17世紀前半、「オランダの繁栄は眼もまばゆいばかり」となったが、州権主義という「政治体制」の故に、統一軍を統制・指揮する集権政府欠如してオランダは内戦状態となり、周辺大国に翻弄されて、17世紀後半に「滅亡の淵にたっ」た(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』153頁以下)。当時のネーデルラントがいかに軸点なく分裂していたかを、オランダの巨大州たるホラント州についてみておこう。
ホラント州は、「必要に応じて自分の州は単独でスペインと和平を結ぶが、その余の州は戦争を続けたければ続けても良い」と公言するに至り、重病のオランダ総督フレデリック・ヘンドリックスに「連合脱退をほのめかし」た。オランダでは、南部は「オランダとの合邦を慫慂」したが、オランダ議会の多数は「南部の分裂を支持し」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』175頁)、ここじ南部をめぐってネーデルラントは分裂した。
ホラント州のブルジョア政治家は、オラニエ公(オレンジ公は英語呼称)ウィリアム2世(1647年もオランダ総督オラニエ公フレデリック・ヘンドリックスの息子)のヨーロッパ諸王家とのつながり(妻は「アンリ4世の孫娘であり英国のチャールズ一世の娘」メアリ)を懸念し、オランダは今や「平穏と繁栄」の中にあるから「費用がかかるばかり」の総督・陸海軍司令官は不要とし、「総督の職」と「軍司令官の職」の廃止を提案した(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』177頁)。
ホラント州のアムステルダムは総督ウィリアム2世宛書簡で、「総督は州の召使いであって主人ではな」く、「命令に従うべき者は総督であ」り、「アムステルダムは現在の平和の果実を楽しむことを欲するものであり、それは不必要かつ無規律の軍隊を維持するのならば不可能となる」とした。当時、「オレンジ家とその支柱である軍隊に対抗して、『平和と経済』がブルジョア政治家の合言葉」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』179頁)だった。
しかし、ウィリアム2世は「ホラントの指導的政治家6人を逮捕」すると、ホラント州は譲歩して「満場一致がない場合はオレンジ公、またはその後継者の決定に従う」とした。この直後の1650年11月にウィリアム2世は24歳の若さで天然痘で急死し、ホラント州は「二度と総督を持たない」とし、国軍を事実上解体し各州軍隊は各州指揮に基づくとした(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』180頁)。死後一週間で誕生した子が後に名誉革命を達成する。
3 オランダ致富への不満
@ オランダの富
植民地取引の高利益 「東インド会社は巨利を博するのに慣れて、地道な海運業をいやがり、独占貿易の維持に精力を費やし」、@「オランダの艦隊は香料の原産地を定期的に訪れ、自分の支配下以外の場所の香料の木を切り倒すこともし」、他のヨーロッパ諸国に「強い不満」を抱かせたり、Aある時期に「胡椒の独占に成功したが、成功するや否や価格を上げて、二、三年で3千%の利益を上げた」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』182頁)。
「オランダは口では理念として自由貿易を標榜しながら」、高利益を求めて、「実際には世界各地で貿易の独占に腐心し」、「スペイン人を植民地から駆逐した後、各地域と結んだ取り決めでは、出来る限り独占条項を挿入しようと努めた」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』182頁)のである。
スペイン戦争終焉 「オランダの運命に決定的な影響を与えたのは、国際情勢の変化」であり、「17世紀半ばまでのオランダの繁栄は、オランダを取り巻く国際情勢の好運(@1618−48年の30年戦争でイギリス、フランス、ドイツなどは「経済発展など全く念頭になく」、Aイギリスは「1625年から1649年までの間に王党派と議会との抗争が内戦にまで発展し、外を顧みる余裕などなかった」)に援けられた所が大き」く、「オランダだけが、すでに勢いの衰えた南部戦線以外では安定と平和を維持し、ヨーロッパ中の避難民がもたらす財産、産業、技術を吸収し、独り稼ぎまくっていた」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』185−6頁)のである。
しかし、「三十年戦争の終結によってローマ教会とスペインの脅威が去」ると、「国家間の経済的利害対立が急に浮かび上がって来」て、オランダの命運に暗雲を漂わせだした(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』186頁)。
17世紀、「アムステルダムには、巨額の富が蓄積され」、それは「アムステルダムの人々を惑わせるほど多くの富であ」り、その富はオランダ国内の利子率(2.5−3%)より高利の国に流出し、オランダ商人は金利生活者に変貌し、「下層の人々に至るまで」、「イギリスに最大の投資先を見出した」。1780年代第四次イギリスーオランダ戦争が始まるまで、「オランダ最大の投資先はイギリスであった」のである。「イングランド銀行の設立による金融市場の整備と議会によるその保証」が、「イギリス公債を外国人による『受動的』な投資に便利であると同時に、きわめて安心感のあるもの」にしたので、オランダ人はイギリスに積極的に投資した。これに対して、「ジョン・ローの計画が失敗に終わったフランスでは、イギリス公債のような安定的で受動的な投資対象を提供し得なかった」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』170−1頁)のである。
人口増加 イギリスと同じ北西ヨーロッパのオランダでは、「16世紀にはスペインに対する独立戦争によって被害を受けながらも、国勢の発展に比例して人口を増大させた」(湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、270頁)。オランダでは、富が増加した17世紀には、人口も140万ー160万(1600年)、185万ー190万(1650年)、185万ー190万(1700年)と増加したのである。
だが、18世紀に入ると、後述の通り経済が停滞して、190万ー195万(1750年)、207万(1795年)と、200万前後で「人口は停滞」する(湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、270頁[M.R.Reinhard,Armengaud
et J.Dupaquier, Histoire generale de la population mondiale,Montchreiten,1968,p.166])。
A オランダ致富への英仏不満
イングランドの批判 イングランドのエリザベス女王は、イギリスにとって「収益の大きい海上覇権獲得を優先すべきだと唱える周囲の反対を押し切って」、「もしスペインがネーデルラントを征服したとすれば、同じ危険が我々の上に訪れる」として、「何の特にもならないオランダ独立の地上戦闘支援」に450万ポンド(1585−1603年)を投下し、海軍には百万ポンドしか使わなかった(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』201頁)。
これに対して、トーマス・マンは、「オランダ人が東西両インドを征服し、その交易の果実をわれわれからむしり取っている間に、われわれ(イギリス人)はオランダの防衛のために血を流している」と批判する(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』202頁)。エリス・バーカー(『オランダの興亡』1906年)は、英国人は「我々のように強く勇敢な国民が経済的に困窮していて、自分達のための戦いも金を払って他国民に戦ってもらっているような卑怯な商人どもが世界の富を集めているのは、・・正しいこと」かとする(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』202頁)。
さらに、マンは、@「オランダは英国の資源である鰊(にしん)を労働コストだけで獲って、それを売って財貨を手に入れ」るのみならず、A「貿易面でも、東インドで1ポンドにつき3ペンスで手に入れた胡椒をアムステルダムでは20ペンスで売り、英国に持って来ると2シリングで売っている」と批判する。チャールズ・ウィルソンは「マンは、オランダを英国の資源によって生きている独占的な寄生虫であり、英国経済の生き血を吸い、これを涸らしている」とする。1618年、フランシス・ベーコンも、「オランダは・・わが王国から財宝を吸い取っている」蛭だとする(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』197−8頁)。
ウォルター・ラーリー(植民地開拓・探検家、1554ー1618年)は、「魚でもワインでも穀物でも、何かが英国で欠乏するが早いか、オランド人達は自分達の倉庫のものを英国中に運び込み、多量の貨幣と財宝を運びだしていく」と批判する。チャールズ・ウィルソン(英国経済史家、『Profit
and Power』)は、当時の人は「ものに憑かれたように 貿易収支のことばかり議論していた」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』198頁)と指摘する。そして、ウィルソンは、「英蘭間のすべての摩擦や果てしない論争の裏には、英国の技術が遅れていたという問題があ」り、英国最大の不満は「オランダ人が、英国とその属領から原材料と半製品だけを輸入して、それを加工、貿易する過程で巨利を博しているということであった」。英国は、「こうして生産した生活必需品や奢侈品を英国に売り込むノウ・ハウをオランダが持っているということを・・英国に対する二重の収奪」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』15頁)と批判した。
こうしたイングランドの対蘭批判・嫉妬をまとめれば、ポール・ケネディ『大国の興亡』(鈴木主税訳、草思社、1988年)では、「英国の経済界の人の多くが、海運、東方貿易、バルテイック、漁業、財政金融一般などにおけるオランダの優位に対して深い嫉妬心を持った、という証拠は歴然たるものがある」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』14−5頁)としている事が妥当であろう。
重商主義 重商主義とは、具体的には、この時期の覇権国オランダの傑出した貿易致富に対するこうした批判に淵源している。それまでは「国や藩の財政(一国の金銀貨幣の蓄蔵状況)にだけしか関心がなかった」が、貿易などで「金銀が海外に流出」し、「金づまりになって景気が悪くなる」と、政府らが「国際経済というものにはじめて関心を持ち出」し、「心配になってくる」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』196頁)のである。さらに、この時期、ヨーロッパ列強らが、アジア、アメリカ植民地をめぐって争い、軍事費確保が要請され、専制国家としての財政基盤強化が求められたことも要因である。
ここに、英仏らがオランダ通商致富を対抗的・批判的に自国に都合よく取り入れ重商主義政策を打ち出してゆくことになる。例えば、トーマス・マンは、金貨流出の原因は「輸入が輸出より多い」という貿易収支に基づくとし、「マーカンティリズムの理論は、この貿易収支の改善(輸入制限、輸出振興)に尽きる」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』196−7頁)とする。だから、重商主義論は、オランダではなく、その「被害」をうけるイギリス、フランスによって提唱されることになる。そして、経済学はこれへの批判のなかで生まれてくることになる。
こうして、重商主義とは、イギリスの批判対象たるオランダの財宝蓄積なのであり、それへの英仏らの対抗策なのであり、「それはやがてアダム・スミスなどの自由経済論者に批判され、それがまた再批判され発展して、近代経済学となって行く」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』198−9頁)とも言える。
航海条例 1649年清教徒革命で、ウィレム2世(イングランド王チャールズ1世の長女メアリーと結婚)の不運なことに「チャールズ1世の長女との結婚」に利益を当てにすることはできなくなった時、「戦争を再開」し、「義兄弟のチャールズ2世を王位に復活させるため」、「南部ネーデルラントの一時的な分配(資金)をもってフランス政府と関係をつけた」。しかし、連邦議会は、ホーラント州以外は「兵員名簿は保存すべき」としたが、ホーラント州は「同州の税金で賄っていた軍隊」を解散した。そこで、ウィレムは、1650年にホーラント州議会の議員6人を逮捕して、「アムステルダムを屈服」させた。しかし、この直後に彼は死去し、8日後にウィレム3世が生まれた(モーリス・ブロール『オランダ史』72頁)。
1651年、この間隙をぬって、「連邦議会にひと泡吹かせることを狙っ」て、「すべての州による州議会の総会」がハーグで開かれ、「連邦共和国はもはや七つの共和国の同盟」であり、各共和国は「自己の領域内で、軍事上も宗教上も主権者」であり、「とびぬけて人口が多く、最も富裕であったホーラント州の主導権と、自治都市の寡頭政の『門閥市民たち』による支配を保障」しようとしたから、「州間の絆を弛緩させることにもなった」(モーリス・ブロール『オランダ史』73頁)。
4 対蘭戦争
英蘭緊張の昂揚 英蘭戦争の原因は、「オランダという国は本質的に平和的であ」り、「英国やフランスにとって何ら脅威ではなかった」が、ただオランダは「その経済的優位を持って一歩も譲ろうとせず、またその経済的優位は経済的方法によっては覆すことが出来なかった」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』18頁)ことにある。
オランダにとって、貿易こそが最重要であり、そのために戦争を忌避させ平和を重視したのである。つまり、「オランダの商品は海上にあるか、あるいは多くの場合、外国の倉庫の中にあ」り、「オランダの富の大きな部分は、略奪者の餌食になり易」く、「外国人はオランダほどの貿易商品や船舶を持っていないから、外国人がオランダ経済の弱点を突いた場合、オランダはこれに報復することは困難」であるから、「オランダにとって、戦争とくに海上の戦争は何にもまして有害であり、平和は極めて有益」となり、「自分から戦争を仕掛けることはない」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』18頁)のである。
しかし、イギリスにとって、特に「国際収支の不均衡の問題は、当時の英国で最も喧しく議論された問題」であり、「英国の政治家や経済人が、英国がオランダの経済システムの中で従属的な地位におかれていると感じ」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』16頁)、オランダの無視は忍耐の限界を越え始めた。
第一次英蘭戦争 1651年、イギリスは経済的な「オランダからの挑戦に、次第に増加する危機を感じ」、「最も常軌を逸した手段によってでもこれを制圧」しようとした。つまり、まず、クロムウェルは、オランダで「大会議が連邦共和国の新しい組織の基礎を築いていた時」、「英吉利もまた共和国になったという事実を口実に、この二つの国のほとんど統合ともいえるような同盟を提案」し、「イギリスはこの統合から大きな利益を享受」しようとしたが、この提案は、「拒否されたばかりか、イギリスの大使たちはオラニエ派から侮辱まで受けた」(モーリス・ブロール『オランダ史』73−4頁)。
そこで、イギリスは上述の航海条例を定め、「イギリスへの輸入はイギリスの船によるものに限る」として、新たな反撃にでた。さらに、イギリスは、「艦隊を著しく強化」し、「計画が遅れ、装備の劣っ」たオランダ側に「戦争を望んでい」て、1652年に海軍だけの第一次英蘭戦争をおこした(モーリス・ブロール『オランダ史』74頁)。オランダは「十分な戦備も戦意もないまま」開戦を余儀なくされた(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』319頁、230頁)。
1653年6月、ガバード沖海戦で、「イギリス艦隊は艦船を縦一列に並べてオランダ艦隊を待ち受け、舷側から一斉に発射される大砲の威力(舷側斉射)でオランダ艦隊を圧倒」した(阿河雄二郎「近世フランスの海軍と社会」[金沢周作編『海のイギリス史』昭和堂、2013年、244−5頁])。オランダでは、「オラニエ派の扇動による反乱が相次いだ」ので、クロムウェルはこの「発展するに任せる」ことを懸念して、1654年ウェストミンスターで和平を調印した。ここで、ホーラント州議会は、除名令で「オラニエ公ウィレムを知事にも総司令官にも選らばないこと」を約した。しかし、連邦議会は、「国民の世論の支持をうけ」て、「この要求に同意することを拒否した」(モーリス・ブロール『オランダ史』74頁)。
ホランド州法律顧問デ・ウィットは、「艦隊の再建に打ち込」み、「その成功は北方戦役(1656−60年)への介入の際の勝利によって証明された」。1660年チャールズ2世の王政復古は、「オラニエ公ウィレムに好機をもたら」し、「伯父であった王(チャールズ2世)が連邦議会の傍らで彼(ウィレム)を支援」し、デ・ウィットは除名令を廃止した(モーリス・ブロール『オランダ史』74頁)。
第二次英蘭戦争 「航海条例の強化にもかかわらぬオランダの通商の繁栄は、イギリスの気持ちを逆なでし」、かつ1662年ネーデルラント連邦共和国がフランスと同盟を結んでフランスの保障を得た事がイギリス世論を刺激し、1665年イングランド軍が北米のオランダ植民地ニューアムステルダムを占領して、ここに第二次英蘭戦争が始まった。
カソリックのミュンスターの司教がネーデルラント連邦共和国に侵入すると、「陸軍をまったく顧みなかった共和国はルイ14世に訴え」、ルイはイギリスに宣戦布告した。だが、1667年にフランス軍が「南部ネーデルラントに侵入」すると、ネーデルラント連邦共和国は危機感を覚えて、イギリスとの和平を画策した。ネーデルラントの軍艦がテムズ川で「非武装のイギリス船」を襲ったりして、「ロンドンに大きな衝撃を与え」ると、イギリスは共和国の和平提案を受け入れた。ネーデルラント連邦共和国は「ニューヨークとともに北アメリカの領地を放棄した」が、バンダ諸島、マレー諸島のイギリス植民地やスリナム(ギアナ)を取得し、「航海条例もある点で緩和された」(モーリス・ブロール『オランダ史』75頁)。
仏蘭戦争 スペイン領ネーデルラントでは、フランスのルイ14世が「急速な成功」を収め、連邦共和国を脅かしていた(モーリス・ブロール『オランダ史』76頁)。カトリック絶対君主ルイ14世は、「この『チーズ商人』の共和国に対する侮蔑と、その国のカルヴァン主義や、この国が無宗教主義者たちに隠れ家を提供していることに対する」憎しみを抱いていた。フランス財務総監コルベールは、「関税戦争となって現れていた通商上の敵対関係」も動機の一つとしていた(モーリス・ブロール『オランダ史』76頁)。
ルイ14世は、イングランド、スウェーデン、ネーデルラントの三国同盟を解体させた上で、1672年に連邦共和国に宣戦布告した(モーリス・ブロール『オランダ史』76−7頁)。フランスは12万人の軍を「ライン川に沿って遡ってきた後、東から攻撃を仕掛けてき」て、「ヘルデルラント、オーフェルアイセル、それにユトレヒト州を占領し」、他方、ドイツ同盟軍は「フローニンゲン、ドレンテ両州を占領」した。これに対して、「ホーラント、ゼーラント両州のオラニエ派の国民は、議会に永久令を廃し、ウィレムを終身知事兼総司令官に任ずることを強いた」。連邦共和国がフランス軍に対して、水門を開けて、足止めさせると、「ルイ14世の提案した屈辱的条件」は退けられた(モーリス・ブロール『オランダ史』77頁)。
これに触発されて、「ブランデンブルグ選帝侯とドイツ皇帝とスペインが、オラニエ家のウィレムに合流」し、1673年末、「スペインに支援されたウィレムはボンの奪取に成功し、これによってフランス軍の連絡路を脅かし」、後退させ、1674年、ウィレムはイギリスと「戦争前の状態を基盤とするウエストミンスターの単独講和」を締結し、連邦共和国とイギリスの関係は「急速に改善」され、1677年にウィレムは「将来のジェームズ2世になるヨーク公爵の長女メアリと結婚し」た。「戦争はその性格を変え、スペインと皇帝の介入によってヨーロッパにまたがるもの」となり、以後、「オラニエ公ウィレムは、スペイン領ネーデルラントで行動する」(モーリス・ブロール『オランダ史』78頁)ようになった。
「オラニエ公ウィレムの威光」はすでに「大君主のそれ」となり、「栄光の極に達したルイ14世」に対抗する「同盟の核」となった。ウィレムは、ルイ14世による「ナントの勅令(プロテスタント信仰を認めた法令)の廃止」によるカトリック中心国家へと逆戻りさせたが、「それに続く大量のフランス人移民によって救われた」。1686年、スペイン、ドイツ(神聖ローマ帝国)諸侯、が「フランスの勢力増大に対抗」してアウグスブルグ同盟を結び、ネーデルラント共和国がこれに参加した(モーリス・ブロール『オランダ史』78−9頁)。
5 オランダの衰退・消滅
「17世紀の半ばから、次の世紀におけるオランダの衰退と消滅が・・準備されてい」(モーリス・ブロール『オランダ史』90頁)き、次述の英蘭併合で衰退にとどめをさされた。
英蘭併合 17世紀半ばの英蘭戦争や仏蘭戦争で国力を消耗し、「オランダの世界帝国はもう昔日の影もなく衰微し、世界の最先端を誇ったその経済も、新興の英仏両国の重なるオランダいじめのために二流の地位に転落」し、「政治、軍事においても経済においても、オランダの世界的役割は終り、代わってその運命は大国の手によって翻弄される時代」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』281−2頁)なっていた。
オ ランダは、1688年九年戦争(アウグスブルグの同盟に基づく戦争)に「多くの金と軍隊を投じ」たが、1697年ライスヴェイク和議で得たもの少なく、「消耗的な戦争への努力のあとの平和は依然として不安定」であった。この共和国は「平時においてさえもイギリスの三倍もの軍隊を維持し」ていたのみならず、「ウィレムのイギリスに寄せる好意のためオランダが恐るべき経済競争に無防備のままさらされ」、共和国の人民の資産が「深刻なまでに脅かされていた」(モーリス・ブロール『オランダ史』80頁)。オランダの戦費負担が衰弱に拍車をかけていた。
1688年イギリス革命で「ウィレムとメアリはイギリスの君主」(共同統治)となった。オランダ連邦議会は、「全オランダの世論」を背後に、「ウィレムがその王座に即くための旅行に軍が擁護すること」に同意した。しかし、オランダは、「イギリスがオランダのため航海条例を改正することなく、オランダを曳き回しているこの併合を苦にやんでいた」(モーリス・ブロール『オランダ史』79頁)。強大化したイギリスが、衰弱したオランダを併合したにすぎなかったのである。1689年には、英国議会は「権利章典を採択してウィリアムズを国王に迎え」、ここに「王の専制を排除する近代議会民主制度が英国に確立」し、「英国の名誉革命」となる。
1701年、スペイン王位継承戦争が勃発すると、1702年ウィレム3世は事故死をとげ、英国王位は「ジェームズ2世の二番目の娘」アン(一番目の娘が妻のメアリーで1694年天然痘で死去し、単独統治となっていた)にわたった。「戦争の初めの何年間には、連邦共和国はまだ偉大さの残照をとどめていた」が、地方的利害、門閥市民の牛耳るネーデルラント連邦共和国は「財政的にも軍事的にも機能の低下が相次ぎ」、さらには「南部ネーデルラントへのオランダの主張に警戒していたイギリスが、次第にあやしい同盟国となり」、1710年イギリスは事実上「この冒険」から身を引いた(モーリス・ブロール『オランダ史』80−1頁)。
門閥市民の堕落 1713年共和国は、ユトレヒトで、「僅かな領地と幾つかの要所に駐屯兵を置く権利と幾つかの商業上の権益」を得たが、門閥市民は、以前と違って、「貪欲な利己主義しか」持ち合わせておらず、以後、彼らは、「協定や姻戚によって権力の座を幾つかの家門の独占物にしよう」とし、「この体制の恩恵を受ける地位の交換は『乗換え』と呼ばれ」、「人々は公職や正義を取引きし、外国に身を売」り、「共和国に急速に堕落」をもたらした(モーリス・ブロール『オランダ史』81−2頁)。
「この衰退と消滅の原因を、勤勉や節度や真摯な信仰心といった基本的資質をもった民衆における道徳的崩壊に帰することはできない」のであり、「責任の大半は、この国の運不運をしばしば左右したあの商人たちの寡頭政治にある」のである。この寡頭政治=分裂国家は、「安逸のなかにしびれ、進取の気象を失うと同時に、重要なことに公民的精神をも失」い、18世紀初めには「誠実さの欠如や買収が公職の責任者たちの間に相当に広まっていた」。オランダ政治は、「ウィレム3世(オランダ総督=事実上のオランダ国王)によってイギリスの利害に従属する慣例がつくられ、王の死後でさえ半世紀以上も依然としてイギリスの政治に縛りつけられていた」(モーリス・ブロール『オランダ史』90頁)。
1747年フランスが「フランドルのゼーラント地区」に侵入すると、「この惨敗によって門閥市民たちの無能に対する激しい憎しみが表明」され、「門閥市民たちの無能に対する憎しみが表明されたため、門閥市民たちは直ちに知事を求める人民の世論に屈」し、「ヤン=ウィレム・フリンの息子で、イギリス王ジョージ2世の娘婿のオラニエ公ウィレム4世」に的を絞った。イギリス海軍も「この小革命に手を貸し、彼を他の州の知事にもすると同時に陸海軍総司令官にまつりあげた」。1748年オーストラリア継承「戦争に終止符をうったアーヘンの条約」では、オランダは「少なくとも何も失わなかった」(モーリス・ブロール『オランダ史』91−2頁)。
しかし、ウィレム4世は有能ではなく、「もっと違った性格を持った首長が必要」であった。1751年ウィレム4世が死去すると、既に後継者は「世襲と宣言されていた」ので、「未成年の息子ウィレム5世がその後を継ぎ」、未亡人(ウィレム4世の)となった「ジョージ2世(在位1727−1760年)の娘」アンが摂政になった(モーリス・ブロール『オランダ史』92頁)。
1756年プロイセン、イギリスとオーストリア、フランス、ロシアとの間に七年戦争が起き、オランダはイギリスとは防衛同盟を結び、フランスとは「有利な通商条約」を結んでいて「微妙な立場」にあったが、「戦争の外に身を置」き「この争いからかなりの利益を引き出す」ことができた(モーリス・ブロール『オランダ史』92頁)。
民主制と総督との分裂深化 オランダでは、民主派は「精力的な知事(総督)」を期待しつつ、無気力に裏切られ、多くの門閥市民は、「知事が権利の要求を突きつけられて民主的基盤の上に君主制を打ちたて」ることを懸念し、「この対立した不満と危惧が、・・中立党を強大」にしたが、「一層過激な解決に走らせ」、ここに「愛国党という共和主義的党派が生まれた」。
一方、「東部諸州の行政官」、門閥市民に批判的な正統派カルヴァン主義者、貴族」は総督に「忠実」であった(モーリス・ブロール『オランダ史』93頁)。
こうして、民主制と総督・君主制との分裂は収拾されるどころか、深まるばかりであった。
アメリカ独立戦争と衰退加速 18世紀後半、北アメリカ大陸では、オランダの総督ウィレム5世は、一方で「家紋のつながりで結ばれていたジョージ3世」(父はオラニエ公ウィレム4世、母はイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の長女アン)に好意的だったが、他方でアメリカ独立軍へ「武器を通過」させていた。だが、1778年フランスがイギリスに宣戦布告すると、オランダは「防衛戦争においてイギリスを支援することを義務づけられていた条約の履行を再度拒否」し、オランダ連邦議会は中立同盟(ロシア、スウェーデン、デンマーク)に加盟することを議決した(モーリス・ブロール『オランダ史』94頁)。
アメリカ独立戦争は「様々な政治的熱情に引き裂かれていた(オランダ)共和国にとっては不幸な戦争であって、共和国にはその商船も植民地も守る力がな」く、1784年に「オランダはその同盟諸国の支持を得られず、インドのネガパティナム(東南海岸の都市)を失い、イギリス人にモルッカ諸島の自由航行を認めざるをえなかった」。「この戦争中に起こった幾つかの問題が、間もなく危険な規模に達し」、「権力を握っていた愛国者たちが、民主派と反オラニエ派とに分裂し」、後者は武装し、「ホーラントの議会はウィレム5世の威光を減ずるような措置に投票」(モーリス・ブロール『オランダ史』94頁)した。
フランス大使はウィレム5世に「革命の炎をさかんに煽」ったが、イギリス大使はウィレム5世を説得して押さえ込もうとした。ウィレムは、板ばさみあって、「決心しかね」ていた。この逡巡をついて、妻(ウィルヘルミナ・フリードリヒ・ソフィア)の兄弟のプロイセン王が介入して、軍隊を派遣し、アムステルダムを降伏させた。プロイセン軍は、「ハーグに入城し、愛国者たちを・・追放し、知事(総督)を復活させて、その権力をイギリスとプロイセンが保証した」。フランスは、イギリス、プロイセン両国と「同時に戦争をしかける気」はなく、共和国の「愛国者たちを支持しなかった」。一方、ウィレムは、「他人の力によって彼に恵まれたこの復興」を活用できず、「狭い保守主義の殻に閉じこもり」、大衆、「知識豊かな市民階級」から遠ざかった(モーリス・ブロール『オランダ史』95頁)。
概して、18世紀には、オランダはますます衰退したのであった。つまり、@オランダ近隣諸国は「発展」し、オランダからの「輸入品に課していた税金の引き上げが、オランダの農業や工業からその生産品のはけ口を奪」い、A「オランダが戦争状態にあるのに乗じて、そのお得意先を中立諸国が奪ったり」して、オランダの貿易が衰退し、B投機の役割が大きくなり、オランダは「イギリスやフランスを揺るがしたものと類似の投機売買に見舞われ」、Cオランダ東インド会社は「マレー半島の大部分にその支配権を広げたので、それを確保するためにますます大規模な艦隊や軍隊を維持しなければならず、これが利益の一部を食ってい」て、「生産の意図的な制限が、原住民搾取の過酷さとともに強まる一方であ」り、「1740年にはジャワで(中国人の)大量の虐殺が行われ」、こうして、オランダ経済は「みじめな姿」をさらす事になった(モーリス・ブロール『オランダ史』96ー8頁)。1780年から84年に至る「イギリスに対する戦争」が、「この破滅を加速させたことはいうまでもない」(モーリス・ブロール『オランダ史』98頁)。
フランス併合時代の衰滅 1789年、フランス大革命が起き、フランス軍は「オーストリア領ネーデルラントを占領」し、1793年には、「フランスに避難していた愛国者」に促されて、ジョージ3世(1760−1801年イギリス国王)のみならず、オラニエ公にも宣戦布告した。1794−5年、愛国者は「この国の心臓部に進入」し、ウィレム5世はイギリスに逃亡し、連邦共和国は崩壊した(モーリス・ブロール『オランダ史』95−6頁)。1795年、オランダはネーデルラント連邦共和国の崩壊後にバタヴィア共和国というフランス衛星国になった。小国オランダは、フランスとイギリスとの間に揺れ動いた。
1795年ハーグ条約で、バタヴィア共和国は「フランドルのゼーラント地区、フェンローおよびマーストリヒトをフランスに委ね、一億フローランの賠償金を支払い、二万の軍による占領に甘んじ」た。しかし、相変わらず、バタヴィア共和国では、「統一主義者と連邦主義者の間の対立が妥協をゆるさ」ず、国民議会では「何の結論にも達しなかった」(モーリス・ブロール『オランダ史』100頁)。
1797年、フランスと組んだバタヴィア共和国は、「通商をイギリスに封鎖され、カンペルドインで海軍を潰滅」され、しかもウィレム5世が「イギリスに植民地への接近を許していたためこれらを占領され」た。1806年バタヴィア共和国は解体され、ルイ・ボナパルト(ナポレオン皇帝の弟)を国王とするホラント王国が樹立された。
一方、1810年、ナポレオン皇帝は、ホラント王国をフランス帝国に併合した。1813年12月、「将来のウィレム1世」(1806年死去した知事ウィレム5世の子)は、アムステルダムで君主の称号を受けた。1814年4月ナポレオン皇帝が退位し、エルバ島に流された。1814年制定憲法で、「執行権は君主に属し、君主に対して責任を負う大臣たちが君主を補佐」するとされた。1814年夏、イギリスは「セイロンと喜望峰植民地とギアナの一部を除いたオランダの植民地の大部分をオランダに返還」(モーリス・ブロール『オランダ史』100−3頁)した。
以後、1815年にはネーデルラント連合王国(オランダ王国)が復活するが、小王国として存続してゆくだけであった(モーリス・ブロール『オランダ
史』104−6頁)。因みに、1844年、ウィレム2世(在位1840−49年)は日本に、開国を勧告する国書を将軍徳川家慶に送るが、翌年に江戸幕府から拒否されている(国立国会図書館「江戸時代の日蘭交流」)。これは、衰退する小国ではあるが、日本と関係を持つ唯一の西洋国家として、日本開港を説得する功績をあげて、「長崎出島に閉じ込めらたままの情けない小国オランダ」と見がちであった西洋諸国家に存在意義を再認識させたかったことによろう。
小 括
オランダは、「スペインからの独立戦争(1568−1641年)」、つまりスペイン覇権の衰退の過程で、1625−75年、スペインに代って覇権を掌握し、最盛期の黄金時代を迎えた。この時期には、国内交易(バルト海貿易の海上輸送運賃)・国際貿易(東インド会社の高収益貿易)が非常に繁栄し、工業は発達し、農業は栄え、初期的な金融制度が発達して国債による戦費調達を可能とし、漁業の生産性は高く、これらがオランダに富をもたらし、人口増大、都市化の伸展、移入民をもたらした。この富は、イギリス、フランスの批判を浴びて、両国らはオランダに対抗して重商主義政策を打ち出したいった。
これに対して、オランダの特徴ともいうべき国家分裂性は、長短合わせもっていて、有効に対応できなかった。確かに、長所としては、「様々な宗派の商人」が来往し、「多様な宗派の商業的ノウハウが蓄積され」、「比較的自由な都市」であり、「商人の活動を国家が管理するという意思はあまりなかった」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』18頁)事が指摘される。しかし、これらは、英仏などの批判を浴びて有効に作用しなかった。それは、国家分裂性の短所としては、公債の信用基盤が各州多様で商業・銀行信用の展開に限界がある事、集権国家の強力な指導の欠如で経済発展できないこと、一丸となって敵国攻撃・侵略に対峙できない事、イギリス・フランスの対蘭貿易規制に対処できない事などからである。確かにオランダは一時的に富を集積したのだが、覇権国家として脆弱であったということである。
こうして、17世紀半ばー18世紀には既にオランダの衰退と消滅が準備されていて、英仏などの対蘭重商主義政策の推進によって、以後の英蘭併合・アメリカ独立戦争・仏国併合過程でオランダは衰退にとどめをさされ、代ってイギリスが覇権国として躍進する事になった。
スペイン、オランダは過渡的な覇権国家であったが、それと対抗し、それを超克する過程で、奴隷制、植民地を基盤にイギリスが「産業革命」によって新たな覇権国家となったのである。スペイン、オランダの歴史的意義は、過渡的な覇権国家として、新たな持続的覇権国家イギリスを生み出す上で一定の意義があったということであろう。
2018年11月7日
千田 稔
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